【完】『海の擾乱』
2 二階堂の御曹司
改元の勅が出て文永と改まった頃、鎌倉から父の引付衆への叙任が決まり、行藤は鎌倉への下向の話が持ち上がったことがあった。
が。
行藤にすれば迷惑きわまりない話である。
「鎌倉…か」
文字どおりの武士の都だが、行藤はどういうわけかあまり鎌倉という場所が好きではない。
例の小姓はたまに市や辻で出くわすと、
「元気か」
と声をかけてくる。
行藤も会釈したりときには話をしたりということもあったが、
(あの者とは住むところがあまりにも違う)
というのもあり、あまり深入りしないことを心がけている。
が。
かなり気性ははげしかったらしく、何かで口論になったとき鼻先に切っ先を突き付けられたことがあった。
そのときも行藤は、
──斬るならお斬りなさるがよかろう。
侍一人斬ったところで天下は変わらぬ、と行藤がいい放つと、毒気を抜かれたのか太刀を鞘におさめてしまった。
しかし。
行藤の物怖じしない性根が気に入ったのか、ときにはともに馬を駆って巨椋池の辺りまで野駆けをすることもあった。
さて。
珍しく冷泉家の為家卿から呼び出しがかかったのは、鎌倉下向の話が出て間もなくである。
為家卿。
百人一首で知られた定家の子で、極楽寺家とも親交のある関係で、二階堂家も親ぐるみで交流がある。
なぜか為家卿は、行藤を孫同然にかわいがっていた。
(おそらく和歌のことであろう)
為家卿はよく行藤に和歌の手ほどきを授けている。
もともと、父の行有も和歌では武士ながら音に聞こえた詠み手だけに、
──そなたは、すじがよい。
といって、古今和歌集など示して教えてくれる。
これは不思議な事実だが、行藤は終生、とりわけ官位の高い年長者からこうした寵恩を受けることが多く、それが行藤を助けることも多かった。
為家卿は、
「鎌倉に戻るのであれば、せめてのなぐさみにこれを読まれよ」
と、わざわざ手ずから写本した抜き書きの歌集を行藤に渡した。
まだ決まったわけではないのだが、さすがにそこまで言い出せずに冷泉家を辞去した帰り、
「ひさびさではないか」
振り向くと、例の水干の小姓がいる。
「冴えぬ顔だがどうしたのだ?」
「実は」
と、鎌倉下向の話を打ち明けた。
「…そなたも大変だな」
もっとも、と続ける。
「われにも婿取りの話が来た」
「…やはり、女だったか」
「なんだ、そなた知ってたのか」
「例の五条橋のときにもしやと思ったのだが、当てずっぽうかも知れぬと思って黙ってた」
ところで──と彼女はいう。
「何ゆえ鎌倉に戻るのが気に食わぬ?」
「…あの町は血生臭い」
「血生臭い?」
「北条の執権どのや名越の家などみなそうだが、親子で何の迷いもなく斬り結ぶ。そうしたけもの臭さが、余は好かぬのだよ」
行藤は答えた。
「ではなぜ武士など続けておる?」
問いかけにぎょっとしたが、
「わしにはどうしようもない。何しろただ一人の跡取りで、身動きもできぬ」
「出家もか」
「幕府の式目で勝手に髪をおろすと、自由出家という大罪となる」
「…なんだ。武士とはつまらぬものじゃ」
「いかにも」
行藤はいう。
「余に兄なり弟なりおれば、そなたのように気ままに暮らすこともできようが、余は武士の曹司。それすら何ともできぬ。…つまらぬものよ侍は」
口では笑っている。
が、寂莫を訴える目を彼女は見抜いた。
「…そういえば嫁に行くと申してたが」
「われのことを気にかけておられたさる方が、然るべき縁談があると持ってきたのじゃ」
「…ならば、もう会うのもないのか」
「そういうことになる」
「そうであったか」
行藤には答えようがない。
「しばしだったが、われは楽しかったぞ」
そういって、二人は別れた。
行藤はしばらく、彼女の背中を見送った。
消えた。
行藤は逆向きに静かに歩くのであった。
結局、行藤は鎌倉には下れなかった。
しばらくして為家卿に庭の椿を肴に宴を開くというので呼ばれ、その場で嫁取りの話が出たからである。
「相手は源大納言通基卿の妹の藤子どのじゃ」
ちなみに藤子は、とうこと読む。
いっぽう。
行藤は困惑した。
「不服か?」
「いえ。それがしは武家の嫡男の身分。まだ家は嗣いでおりませぬゆえ、鎌倉に伺いを立てねば、返答は難しいと存じまする」
なるほど、と為家卿はうなずき、
「しかしの、すでに鎌倉の行有どのにも使いを立てて、この為家の一存で良いと執権どのも仰せられたそうじゃ」
いくら怖いものなしの北条でも、ときの後嵯峨上皇のおぼえめでたい冷泉為家の口利きとなると、簡単には口出しできないらしい。
「恐れ入り奉りまする」
何のこのぐらい、と為家卿はいい、
「ところで武家の習わしでは一度、顔を合わせるそうじゃの」
しかしのう、と為家卿はいう。
「麿は良いと思うのやが、何しろ大納言どのは源氏長者ゆえ、二階堂家では家の格が釣り合わぬと渋っておってなあ」
無理もない。
清和源氏、宇多源氏、村上源氏と数ある源氏の中でも筆頭と帝から認められるのが、源氏長者なのである。
が。
「もとを正せば二階堂家は公家から武家になったような家。下手な成り出で者の武士とは違うゆえ、藤子どのにも良い話と思うのやが…」
確かに。
鎌倉でも二階堂家といえば京風の暮らしぶりが抜け切らぬ、半ば公家のような家で、変わった家と見られることもある。
そこで、と為家卿は、
「一度、引き合わせてみようと思うてな。もし互いに気に入らねば話はそれまでで、行藤どのにも大納言どのにも傷はつかぬ。まとまればまとまったで」
これほどの縁談はあるまい、と為家卿はいうのである。
行藤には特に蹴る理窟もない。
一応、対面することにした。
為家卿から使いが来た。
が。
例の縁談ではない。
前年に上洛を果たし、およそ二十年ぶりに復活した、六波羅探題南方の北条時輔の着任の祝いの宴で、極楽寺時茂に嫡男が生まれたというのも重なって、盛大な宴席がもうけられることになった…というのである。
(時輔どのか…)
さすがに行藤でも躊躇してしまうものはある。
極楽寺時茂の祝いはまだ良い。
問題は時輔である。
ちなみに六波羅探題は北方と南方があって、北方は例の極楽寺時茂にあたる。
行藤は北方に所属しており、南方と行き来はない。
が。
かつての執権の北条時頼の長子ながら、嫡子の時宗の庶兄というだけで六波羅に飛ばされてきたのが時輔である。
「いわゆる鎌倉からの追放ではないか」
という噂もあながち嘘には聞こえない。
一応、行藤の叔母は時頼の正室で、時輔は義理のいとこでもある。
いっておくが血の繋がりはない。
ただし。
ここは京である。
もしも鎌倉で同様の宴会に列席すれば疑惑をかけられかねないが、そういうときに限って、公卿衆と交際が多い二階堂家の特殊な家風が幸いした。
(顔を出すだけなら)
と、行藤は出席を決めた。
だが。
一人は危険と感じたのか、日頃から付き合いのあった一条家経という、同い年の親しい公卿に同行を頼んだ。
すると、
「余で良ければ」
行藤は断られるかと思ったが、家経は意外とあっさり引き受けてくれた。
家経の父は前関白の実経で、しかも歌人の為家卿とも親しい。
(持つべきものは友とは)
よくあらわしたものだ…と、行藤は実感した。
が。
行藤にすれば迷惑きわまりない話である。
「鎌倉…か」
文字どおりの武士の都だが、行藤はどういうわけかあまり鎌倉という場所が好きではない。
例の小姓はたまに市や辻で出くわすと、
「元気か」
と声をかけてくる。
行藤も会釈したりときには話をしたりということもあったが、
(あの者とは住むところがあまりにも違う)
というのもあり、あまり深入りしないことを心がけている。
が。
かなり気性ははげしかったらしく、何かで口論になったとき鼻先に切っ先を突き付けられたことがあった。
そのときも行藤は、
──斬るならお斬りなさるがよかろう。
侍一人斬ったところで天下は変わらぬ、と行藤がいい放つと、毒気を抜かれたのか太刀を鞘におさめてしまった。
しかし。
行藤の物怖じしない性根が気に入ったのか、ときにはともに馬を駆って巨椋池の辺りまで野駆けをすることもあった。
さて。
珍しく冷泉家の為家卿から呼び出しがかかったのは、鎌倉下向の話が出て間もなくである。
為家卿。
百人一首で知られた定家の子で、極楽寺家とも親交のある関係で、二階堂家も親ぐるみで交流がある。
なぜか為家卿は、行藤を孫同然にかわいがっていた。
(おそらく和歌のことであろう)
為家卿はよく行藤に和歌の手ほどきを授けている。
もともと、父の行有も和歌では武士ながら音に聞こえた詠み手だけに、
──そなたは、すじがよい。
といって、古今和歌集など示して教えてくれる。
これは不思議な事実だが、行藤は終生、とりわけ官位の高い年長者からこうした寵恩を受けることが多く、それが行藤を助けることも多かった。
為家卿は、
「鎌倉に戻るのであれば、せめてのなぐさみにこれを読まれよ」
と、わざわざ手ずから写本した抜き書きの歌集を行藤に渡した。
まだ決まったわけではないのだが、さすがにそこまで言い出せずに冷泉家を辞去した帰り、
「ひさびさではないか」
振り向くと、例の水干の小姓がいる。
「冴えぬ顔だがどうしたのだ?」
「実は」
と、鎌倉下向の話を打ち明けた。
「…そなたも大変だな」
もっとも、と続ける。
「われにも婿取りの話が来た」
「…やはり、女だったか」
「なんだ、そなた知ってたのか」
「例の五条橋のときにもしやと思ったのだが、当てずっぽうかも知れぬと思って黙ってた」
ところで──と彼女はいう。
「何ゆえ鎌倉に戻るのが気に食わぬ?」
「…あの町は血生臭い」
「血生臭い?」
「北条の執権どのや名越の家などみなそうだが、親子で何の迷いもなく斬り結ぶ。そうしたけもの臭さが、余は好かぬのだよ」
行藤は答えた。
「ではなぜ武士など続けておる?」
問いかけにぎょっとしたが、
「わしにはどうしようもない。何しろただ一人の跡取りで、身動きもできぬ」
「出家もか」
「幕府の式目で勝手に髪をおろすと、自由出家という大罪となる」
「…なんだ。武士とはつまらぬものじゃ」
「いかにも」
行藤はいう。
「余に兄なり弟なりおれば、そなたのように気ままに暮らすこともできようが、余は武士の曹司。それすら何ともできぬ。…つまらぬものよ侍は」
口では笑っている。
が、寂莫を訴える目を彼女は見抜いた。
「…そういえば嫁に行くと申してたが」
「われのことを気にかけておられたさる方が、然るべき縁談があると持ってきたのじゃ」
「…ならば、もう会うのもないのか」
「そういうことになる」
「そうであったか」
行藤には答えようがない。
「しばしだったが、われは楽しかったぞ」
そういって、二人は別れた。
行藤はしばらく、彼女の背中を見送った。
消えた。
行藤は逆向きに静かに歩くのであった。
結局、行藤は鎌倉には下れなかった。
しばらくして為家卿に庭の椿を肴に宴を開くというので呼ばれ、その場で嫁取りの話が出たからである。
「相手は源大納言通基卿の妹の藤子どのじゃ」
ちなみに藤子は、とうこと読む。
いっぽう。
行藤は困惑した。
「不服か?」
「いえ。それがしは武家の嫡男の身分。まだ家は嗣いでおりませぬゆえ、鎌倉に伺いを立てねば、返答は難しいと存じまする」
なるほど、と為家卿はうなずき、
「しかしの、すでに鎌倉の行有どのにも使いを立てて、この為家の一存で良いと執権どのも仰せられたそうじゃ」
いくら怖いものなしの北条でも、ときの後嵯峨上皇のおぼえめでたい冷泉為家の口利きとなると、簡単には口出しできないらしい。
「恐れ入り奉りまする」
何のこのぐらい、と為家卿はいい、
「ところで武家の習わしでは一度、顔を合わせるそうじゃの」
しかしのう、と為家卿はいう。
「麿は良いと思うのやが、何しろ大納言どのは源氏長者ゆえ、二階堂家では家の格が釣り合わぬと渋っておってなあ」
無理もない。
清和源氏、宇多源氏、村上源氏と数ある源氏の中でも筆頭と帝から認められるのが、源氏長者なのである。
が。
「もとを正せば二階堂家は公家から武家になったような家。下手な成り出で者の武士とは違うゆえ、藤子どのにも良い話と思うのやが…」
確かに。
鎌倉でも二階堂家といえば京風の暮らしぶりが抜け切らぬ、半ば公家のような家で、変わった家と見られることもある。
そこで、と為家卿は、
「一度、引き合わせてみようと思うてな。もし互いに気に入らねば話はそれまでで、行藤どのにも大納言どのにも傷はつかぬ。まとまればまとまったで」
これほどの縁談はあるまい、と為家卿はいうのである。
行藤には特に蹴る理窟もない。
一応、対面することにした。
為家卿から使いが来た。
が。
例の縁談ではない。
前年に上洛を果たし、およそ二十年ぶりに復活した、六波羅探題南方の北条時輔の着任の祝いの宴で、極楽寺時茂に嫡男が生まれたというのも重なって、盛大な宴席がもうけられることになった…というのである。
(時輔どのか…)
さすがに行藤でも躊躇してしまうものはある。
極楽寺時茂の祝いはまだ良い。
問題は時輔である。
ちなみに六波羅探題は北方と南方があって、北方は例の極楽寺時茂にあたる。
行藤は北方に所属しており、南方と行き来はない。
が。
かつての執権の北条時頼の長子ながら、嫡子の時宗の庶兄というだけで六波羅に飛ばされてきたのが時輔である。
「いわゆる鎌倉からの追放ではないか」
という噂もあながち嘘には聞こえない。
一応、行藤の叔母は時頼の正室で、時輔は義理のいとこでもある。
いっておくが血の繋がりはない。
ただし。
ここは京である。
もしも鎌倉で同様の宴会に列席すれば疑惑をかけられかねないが、そういうときに限って、公卿衆と交際が多い二階堂家の特殊な家風が幸いした。
(顔を出すだけなら)
と、行藤は出席を決めた。
だが。
一人は危険と感じたのか、日頃から付き合いのあった一条家経という、同い年の親しい公卿に同行を頼んだ。
すると、
「余で良ければ」
行藤は断られるかと思ったが、家経は意外とあっさり引き受けてくれた。
家経の父は前関白の実経で、しかも歌人の為家卿とも親しい。
(持つべきものは友とは)
よくあらわしたものだ…と、行藤は実感した。