【完】『海の擾乱』
15 雲を裂く
閏七月一日。
太陽暦でいう八月二十三日である。
嵐が、過ぎ去った。
雲が吹き返しの風に流れて裂けてゆくと、晩夏の青空がそこにはある。
鷹島の沖に蝟集していた元軍の船は、破損した数隻を残して、ほとんどが消え去っていた。
あとから分かったのだが、鎖で船を繋いでいたのが仇となって、芋づる式に船が次々沈んだのである。
のち「元史」には、
「十万の衆、還るを得たるは三人のみ」
とあり、高麗側の資料にも「帥を喪うこと十人に七、八人なり」とある。
具体的な死者は不明ながら、他の資料には「軍九千九百六十名、水手一万七千二十九名のうち、生還は一万九千三百九十七名」とあり、高麗側の別の資料には「帰らざる者七千余人」ともある。
少なくとも「元史」「高麗史」の数字を足すと総勢は十五万七千人とあるので、高麗側は約三割弱、元軍は五割以上が犠牲となった計算となる。
で。
総督范文虎をはじめ金方慶、忻都など将軍はというと、かろうじて無事であった船に移って、残った兵を鷹島の五竜山に見捨て、みずからは沖へ去ったのである。
低レベルという他ない。
行藤は早船を仕立て博多へ知らせると同時に、本部の少弐経資や鎮西探題の金沢実政と善後策を練るべく、今津の少弐隊の陣へ頼綱と向かった。
あとを任された島津久長と比志島時範、千葉宗胤は、伊万里湾の掃討をはかるべく竹崎季長と合流。
平戸島の残党を追撃にかかったのは都甲惟親と香西度景をはじめとする豊後と筑後の隊で、こちらは平戸島をのぞむ御厨を目指したのであった。
閏七月二日。
早船を受け御厨を目指し、少弐景資が出陣。
閏七月三日。
今津に到達した行藤と頼綱は少弐経資と対面したあと、博多の櫛田神社で鎮西探題の金沢実政に拝謁。
いわゆる戦後処理として執筆方による手柄の検分、寺社との調整など新しい仕事が頼綱には与えられた。
いっぽう。
行藤には金沢実政から朝廷への奏上という仕事が与えられた。
「そのため六波羅へ行ってもらう」
というのである。
「貴殿は関白や上皇さまのおぼえもめでたいゆえ」
ということであったが、
(要は体のいい邪魔者あつかいではないか)
行藤は今さらながら鎌倉の人事の不思議さに振り回されたかっこうであった。
しかし。
無位無冠の頼綱では朝廷に出入りすらできない。
「そなたは従五位であろう」
確かに行藤には従五位下の官位がある。
かつて頼綱の任官を阻んだのが、このようなかたちで跳ね返ってきたのである。
(まあ、仕方がない)
行藤にはこうしたときに、苦笑いをする癖がある。
閏七月四日。
行藤は菊池武房に礼を述べると、河野水軍の船で六波羅を目指し博多を出立。
頼綱は金沢実政とともに、太宰府へ転進を開始、博多には少弐経資が今津から本陣を移転している。
御厨では夕刻に少弐景資が都甲隊、香西隊と合流、すぐさま海戦の支度にかかった。
行藤の船が長門の室津に差し掛かった五日、鷹島では大規模な船戦が始まった。
鷹島の戦いである。
島津久長と比志島時範はともに敵船に迫り、竹崎季長は大矢野種保とともに船将の御座船に乗り移り、互いに副将の首を最初にあげる一番首の戦功を立てた。
こうした戦は閏七月九日まで続き、生け捕られた二千人近い捕虜が、博多まで護送されたのであった。
いっぽう。
御厨では閏七月五日、少弐景資と島津久長、比志島時範、龍造寺季時の軍勢が、先駆けしていた都甲惟親や香西度景の先導で、平戸島の残党に掃討戦を仕掛けている。
ここでは七日までの合戦で、正式なデータはばらつきがあるが約数百人の捕虜を生け捕りしたのである。
特に都甲惟親にいたっては敵船に真っ先に乗り込んで一番手柄をあげ、平戸島の戦いの引付書の筆頭に書かれるにいたった。
こうして、文永十一年に始まった一連の戦闘は、終わったのである。
戦闘の結果を行藤が聞いたのは、上洛のため大輪田の泊で行列を整えていた最中である。
「…ようやく、終わったのか」
行藤はつぶやいた。
最初の国書の件のときなど、まだ極楽寺時茂や北条時輔が生きていた頃であったから、もう十五年近い前である。
大輪田の泊から西国街道を河野通忠(通有の嫡男)とともに京に上洛し、六波羅の北条時村と佐介時国の両探題に報告、行藤はその足で御所へ参内。
ひさびさの御所である。
御所では前関白一条家経の奏請により、仙洞御所の亀山上皇への拝謁が許可された。
亀山上皇からは、
「二度目の神風によりこの日ノ本を護らしめることができた」
という綸言が仰せ出だされ、行藤は足労として銭十疋を賜わった。
が。
明らかに行藤の内心は、高御座の亀山上皇とは違う。
(島津どのや松浦水軍は)
嵐が来るのを予見していたのだ、と行藤の胸のうちにはある。
口にはしない。
それを神頼みの風であったなどというのは、ただの独り善がりではないか…というのが行藤の包んで隠した本心であった。
しかし。
それを言ってしまうとおそらく亀山上皇あたりは卒倒してしまうのではあるまいか、と行藤は本心を戦袍で隠したまま、御所を退出したのであった。
屋敷では留守を預かる理趣尼と貞藤が迎えた。
「お戻りなされませ」
「何とか無事に、京までは来た」
あとは鎌倉までの道中だ、というとようやく行藤は鎧を解くことができた。
だが。
(京でこうなのだ)
鎌倉ではどう伝わっているか、分かったものではない。
そこで。
河野家で、対馬で討ち死にした宗資国の家来であった斎藤兵衛次郎という郎党が傷の湯治かたがた、有馬の湯に預けられてある。
その斎藤兵衛次郎を二階堂家で召し抱え、捕虜とした高麗人ともども鎌倉へ送り真実を言上させるプランが浮上したのである。
その計画を河野通忠に伝えると、
「博多の父上にうかがいを立てておきまする」
といい、早速父の通有への使いを立ててくれたのであった。
数日、過ぎた。
芸州から隻眼の敵兵が生け捕りされて京へ護送されてきた、というので判官でもある行藤は尋問を担当することとなった。
「それがしは異国の言葉が分からぬ」
行藤がそういうと、それを聞いた河野家では斎藤兵衛次郎を通訳として派遣してきた。
「高麗の言葉なら話せまする。さらに」
宋の言葉なら、読み書きぐらいであればできる…というので尋問の場に呼ばれたのである。
尋問の日。
選ばれた場は、六波羅に近い二階堂家の小松谷の別の屋敷である。
「…斎藤どのが参られました」
「うむ」
浅葱色と縹色の片身違いの直垂姿の行藤は、威儀ただしく応えた。
かたわらには、河野通忠がある。
濡縁へ斎藤が着座。
そこへ。
縄目を受けた萎烏帽子の男が引っ立てられてきた。
「…あれは」
李義勇ではないか、と通忠は驚きを隠さなかったのである。
様子を察した行藤は、
「通忠どの、そこもとの知り人か?」
と小声で訊いた。
「それがしが例の博多の船戦で」
打ち合った拳術使いである旨を伝え、
「おぬし何が狙いじゃ、申してみよ」
太刀に手をかけた。
「待て」
行藤は制止し、
「貴殿には貴殿なりの誇りがあろうゆえ、この行藤が直々に詮議いたす」
縄目を解け、と命じた。
「それは」
家臣がためらった。
「この行藤ひとり討ち果たしたところで、我等が異国に勝ったことは覆せぬ」
外せ、と行藤は再び命じた。
縄目は解かれた。
が。
動かない。
うなだれたまま、李義勇は嗚咽らしき声を洩らしていたのである。
「戦とはそうしたもの」
敗けて死ぬならともかく、帰れもせず異国で生き恥をさらすこと以上の恥辱はない、といい、
「なにゆえ安芸に潜んでおった」
誰かの首を狙っていたのであれば大罪人として、六波羅で首をはねなければならないのである。
李義勇は語り始めた。
斎藤兵衛次郎の通訳によると、
「流れ着いた浜で小舟を強奪し、はじめは首を狙うべく機を待っていたが、嵐で流され長門にたどり着き、歩いて安芸まで来たところ行き倒れとなり、助けられた地元の娘と懇意になるうちに、自首を考えるようになった」
という由であった。
行藤は瞑目したまま聞いていたが、
「わかった」
裁きが下るまで当家預かりといたす、といい、六波羅へ使いを立てたあと行藤は下がった。
処分が決まったのは、しばらくのちのことである。