【完】『海の擾乱』
第三部 鎌倉の巻

1 ほころびの始まり

小春日和である。

博多での戦後の処理をようやく終えた平頼綱の隊が、上洛の内示を受けた菊池武房の菊池隊とともに京へ入ったのは弘安四年十一月である。

行藤は六波羅で探題の北条時村、佐介時国とともに出迎えた。

「頼綱どのに、左衛門尉の任官が決まり申した」

早速本題を切り出したのは佐介時国である。

「さすがに新三位中将どのの孫ともなると、任官の手続きも朝廷では素早かった」

佐介時国がいう新三位中将、というのは清盛の孫の平資盛のことを指す。

資盛の愛妾であった建礼門院右京大夫のとりなしで助命された別腹の遺児が、のちに乳呑み子から成長して平盛綱と名乗って北条家の被官となり、その長男が頼綱にあたる。

御内人の任官を渋っていた行藤も、さすがにそれを持ち出されては抗えなかったようで、

「飛鳥井の少将どのからのお祝いを預かっておる」

と、頼綱の正室の実家から届いた進物の話をしたときには、

(なんともはや)

と、敗けてうちひしがれたかのような感を行藤はおぼえた。



小松谷に帰邸すると行藤は珍しく、浴びるように酒を飲んだ。

「父上、いかがされたのでございまするか」

あまりに行藤の急ぐ飲みっぷりに貞藤は思わず杯を取り上げ、

「極楽寺の時茂さまのようになってしまわれますぞ」

貞藤は諌め気味に父親を叱り飛ばした。

「…貞藤、そなたにはまだわからぬであろうが」

官位がひっくり返ることほど嘆かわしきものはないぞ──と、累代の御家人のほとんどが御内人に抱いていたであろう悔しさをにじませた。

「いかに平家嫡流の流れをくむ頼綱とはいえ、頼朝公の昔より鎌倉を支えてきた二階堂一門とは、比べ物にはならぬのだ」

始祖の二階堂行政は幕府の創成期に司法のシステムを組み上げ、問注所の筆頭として頼朝を支えたブレーンでもある。

それだけに二階堂一門に流れる自負は半端なものではないのである。

しかも。

「頼朝公をお支え申し上げてきた数多の外様の御家人では、わが二階堂一門しか今や残っておらぬ」

当時あった梶原、三浦、比企、伊賀、上総など数々いた外様の御家人の一族は、ほぼ政争で滅ぼされている。

「われら二階堂家は、いつ滅ぼされるかわからぬ中、官位や学問でかねがね家を守ってきたのだ」

その武器のひとつが意味をなさなくなると、滅ぶ危険性は嫌でも増してしまうのである。

「よいか貞藤、わしはたまたま妻が公卿であったゆえ何とかなっておるが」

朝廷との繋がりは粗末に扱ってはならぬ、と酔った顔で、しかし眼は酔いの醒めた様子で厳しく命じたのであった。



平頼綱が任官のあと、菊池武房と共に二階堂屋敷へとあらわれたのは、行藤が鎌倉への出立の支度を整えつつあったときのことである。

「菊池どのに朝廷から鎧が下賜されることとなった」

というのである。

「それは誠におめでとうございまする」

行藤は心底から喜んだが、

「鎧が土地であれば、なお良かったのだが」

と菊池武房はこぼした。

というのも。

「みな恩賞が働きの割に、思ったより少ないことで鎌倉に疑念を抱いておりまする」

という頼綱の発言は、行藤も懸念するものであった。

(これでは)

今まで恩賞と奉公という、幕府を支えてきた根幹のシステムそのものが瓦解してしまうのである。

現に無足の御家人が悪党と化して略奪や強盗を行う、そうした事例は行藤が悪党の征伐に甲斐へ出向いた頃から、北条時輔が指摘していた問題であった。

それが顕在化しつつある。

「しかし恩賞として授けられる田畑が足らぬのでは、どうしようもあるまい」

菊池武房は明らかに不満げである。

「ならば新田の開墾をいたさねばなりますまい」

行藤はごく軽い調子で言った。

が。

「そうは仰せられても判官どの、新田を切り開くにも何をするにも、銭がかかるのでございますぞ」

厳しい剣幕で、菊池武房が反駁したのである。

「今やわれら武士とて銭が手になければ、新田を開くことすらままならず、金貸しに鎧や太刀までカタに取られてしまうのでございまするぞ」

そういえば竹崎季長がそうであったのを、行藤は思い出した。

「無足の武士が食うに困り悪党となるのは、単に本人が奢侈を極めたというより従前の等分に田や畑を分けるやり方に欠陥があるからでは」

というのである。

が。

慣習は、簡単に変えられるものではない。

「そこを変えれば悪党は減りまする」

しかし、と頼綱はいう。

「いかに武士といえど人は欲が絡むと、たとえ兄弟であっても斬り合いにもなりかねませぬゆえ」

難しゅうございましょう、と結んだ。

さすがに、行藤にも答えの出ない問いであったのは確かである。



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