【完】『海の擾乱』

14 為政者の孤独

話が少し前後する。

二ヶ国の守護となった行藤が、平頼綱に呼び出されたのは正応二年、伏見天皇の践祚から一年が経過した頃であった。

この時まだ亀山上皇はちなみに出家していない。

長崎光綱の先導で、政所の会所に呼び出された行藤に、頼綱は着座するなり頭を下げた。

「折り入って判官どのに、うかがいたきことがございまする」

新たなる国づくりの、今でいうビジョンの参考に意見を聞きたいという主旨の話であった。

「きけば判官どのは東西の学問に明るく、新田の開墾も我等には思いも及ばぬ案であった」

要は知恵を貸せ、といったところである。

(どうやら時宗どのに相当手厳しく仕込まれたな)

行藤は察したが、

「ならば、追って建白書を出しまするゆえ」

数日お待ちくだされ、といい、その日は退出した。



数日、過ぎた。

行藤の建白書に目を通すと、

「これでよろしゅうございまするか」

行藤は言った。

頼綱は無言で頷き、

「では早速、取りかからせてもらいまする」

こうして、頼綱の手により行藤のプランは実行に移された。

まず。

米を収穫したあとの田圃に蕎麦や麦、あるいは大根や蕪などを作らせる二毛作を奨励し、それらにも年貢を負荷するという手法で、西国ですでに行われていた二毛作を、東国での作付を推奨したのであった。

これによって。

それまでの蒙古襲来で傾き始めていた幕府の財政は、税収のアップにより単年の黒字化に、まず成功したのである。

次は交易である。

蒙古襲来による貿易の額の激減は相当なダメージで、頼綱は和賀江島の埠頭の改修と、六浦湊から朝比奈切通にかけての道を整備する工事の着手を命じた。

六浦湊と朝比奈切通の整備による交易の増大は、幕府のみならず鎌倉全体を富ますという、かつての博多を知り、謝国明とも交流があった行藤ならではの着眼点とアイデアであった…と言える。

この効果は正応三年を迎える頃には、京にも唐物の陶磁器や書画が入ってくるようになり、

──唐物屋。

という専門の店やそれらが集まる町が形成されるほどの、大々的なムーブメントとなった。



が。

なぜか頼綱は、行藤の建白書にないことにまで手をつけ始めた。

それまでは聖域、とされていた神社仏閣の荘園や所領などからの年貢の徴収、という、当時タブーとされていた範囲に、幕府として介入を開始したのである。

これは行藤も異を唱えた。

「それは地下人(じけびと)から反撥が出ますぞ」

地下人とは寺社の武士や、幕府に仕えていない武士のことである。

奈良や和泉、紀州あたりの古い寺社には寺を守るための侍があり、かつて訴訟に来た楠木入道も河内の観心寺に出入りする、寺侍でもある。

そこへ北条家がくちばしを挟むのは、要らぬ戦いの遠因になりかねない危険な策であった。

が、頼綱は、

「北条家に集めるのではない。幕府を、この国を豊かにするためには」

禁野(しめの。禁猟区のこと)なぞあってはならぬのでございます、と頼綱は強い口調で言い切った。

(分からぬでもないが)

あまりの語気の強さに行藤は、押し黙った。

嫌な胸騒ぎがしたが、

「…承知いたした」

そうとしか言えず、行藤は会所を退出したのであった。

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