【完】『海の擾乱』
2 喧嘩両成敗
頼綱には算段があって、後深草院と亀山院の言い分次第では、
「一存で断罪にして構わぬ」
という、何とも放胆な方針を伝えてきた。
「それは遠島でも構わぬ、ということにございましょうや?」
「然り」
頼綱はこたえた。
「幕府の威光はみかどをもしのぐものである、ということを、満天下に知らしめねばならぬ」
というのが、頼綱の眼目であった。
だが。
行藤はそこまで幕府に強権を持たしめることには、違和感をいだいている。
あくまでも幕府は政治代行であり、さもなくば朝廷は不要となってしまうであろう。
(われら武士は身の置き所を間違えてはならぬ)
というのが、行藤の見識である。
そこには温度差があり、見る世界も違った。
この溝が埋まらないまま、行藤は上洛の途についている。
上洛すると行藤はまず佐介盛房に拝謁し、
「それがしは鎌倉より生殺与奪の権を委されておりますれば」
六波羅においてはどうか安んじられますよう、と言上した。
(つまり口を挟むな、という意味か)
貞藤は気づいたが、
「お主はそれが、傲慢だというのだ!」
滅多に手を上げないのが、珍しく行藤に扇で殴られた。
翌日。
早速まず後深草院のもとへ伺候し、
「かしこきあたりにあらせられましては、法皇さまこそ黒幕であると思し召しの由、うかがっておりまする」
「そは朕も聞いておる」
「ではそれがまことか否か、この行藤めが代わりとなって確かめまする」
行藤はいった。
次に向かったのは亀山法皇の御所である。
後嵯峨上皇のおぼえめでたかった行藤が幕府から派遣されたことに、
「今は亡き上皇さんが聞いたらば、なんと思し召されようか」
亀山法皇は親しげに行藤に問いかけた。
が。
「しかしながら法皇さま、一の院さま(後深草院)はみかどを殺めまいらせんとした黒幕は法皇さまではないか、との目を周りが向けておるのを気にしておいでにあらせられました」
少し婉曲な言い回しで、しかしこれは兄弟喧嘩ではないのかとも言いたげな顔を行藤はしてみせたのである。
「さにあらず、聞けば鯰尾の太刀は三条家より誰かが勝手に盗んだとも聞いておる」
取り巻きの公家どもからの声は、行藤にはやかましいものであった。
「ではどう盗まれたのか、どなたか証を立てられるお方はおりまするか?」
証がなければ嫌疑は晴れぬ、と言い切ってから、
「もとを正せば、これは先の上皇さまが長幼の序列に反してみかどを決められた、いわば朝廷のつけでございまする」
その払いを幕府がせねばならぬ道理はございませぬ、と行藤はしたたかにいい放った。
「無礼やないか行藤」
「ならば、幕府に刃向かわれるおつもりにございますか?」
それがしは名代として生殺与奪の権を与えられておりまする、と続けてから、
「この行藤に手向かうお方は幕府に刃向かう者として裁かねばならなくなりまするが、いかがあそばしまするか?」
言葉は丁寧だが、明らかな脅しに近い。
たちまち静まった。
「それがしは事を荒立てるために参ったのではございませぬ」
無駄に血を流さぬために、ただまことのことをなさんとするまでにございまする、といった。
「では行藤…そちゃ」
「それがしが、すべてはからいまする」
行藤は退出した。
数日間。
行藤は徹底した調査をみずからおこない、その上で裁決を下すべく後深草院と亀山院の使者を呼び出した。
「これは内々の沙汰でございますが」
といってから、
「みかどを殺めまいらせんとした源は、一の院さまと法皇さまの喧嘩にある…として、式目の喧嘩両成敗に照らし合わせ、どちらも流罪が妥当であるという話が出て参り申した」
使者はともに驚いた。
「それはあまりにも殺生にございまする」
どちらも慌てふためいたが、行藤は平然とした面構えで、
「これで上皇さま以来のつけの払いもかたがつきまする」
これほど素晴らしい沙汰はない、というのである。
さらに。
「天下を二つに割らんとするほどの大騒動の大もとを残しておきながら、幕府の所為と騒がれるのはいかがかと存ずる」
行藤の取り付く島すらない様相に恐れをなした使者は、あたふた戻るとそれぞれ後深草院と亀山法皇に伝えた。
聞いた亀山法皇は、
「麿は疑われておるゆえ、そうとられても何も申せぬ」
とこぼしたが、黙っていないのは後深草院である。
「我が子を殺められそうになったのに、幕府に罪人として裁かれるなぞ前代未聞ではないか」
鎌倉へ直談判いたす、といった剣幕で、実際に出駕をしようとして近臣に止められたほどである。
が。
どちらかが憤ることが、行藤の目論見である。
「そこまで仰せなば、これよりは兄弟あい手を携えて天下を安らけくせん、と万民に知らしめていただきとうございます」
つまり手打ちをせよ、といったのである。
「それはどういうことや?」
「鯰尾の太刀は浅原為頼の一味が勝手に盗んだもので、一の院さまにも法皇さまにも関わりなきことを、みずからお示しいただければよろしいのでございます」
つまり伏見天皇の暗殺未遂と両統の抗争は別件として扱う、と行藤は示したのである。
「さすれば、喧嘩両成敗の喧嘩そのものがなくなりまする」
つまり流罪は免れる、というのである。
「それでも一の院さまがご納得いただけぬとあらば、一の院さまにも法皇さまにも、佐渡か隠岐あたりにお移りいただく仕儀となりまする」
こうなると両統は和睦しかないであろう。
こうして。
無事に後深草院と亀山法皇の和睦は成立し、浅原為頼の御所闖入事件は物盗りの蛮行、という決着をみたのである。
この話題はたちまち洛中では持ちきりとなり、
──まだ鎌倉に武士らしい武士がおった。
というので、驚いた者すらあった。
確かに。
政治的に難しい事件である。
御所という聖域に近い場所で起きた事件だけに、幕府では腫れ物にさわるような扱いであった。
が、それを行藤が軽々とどこにも傷のつかないように裁いてみせたことで、
「二階堂判官は、出来る」
という噂が上がったことはいうまでもない。
始末がつくと行藤は帰途についた。
「一存で断罪にして構わぬ」
という、何とも放胆な方針を伝えてきた。
「それは遠島でも構わぬ、ということにございましょうや?」
「然り」
頼綱はこたえた。
「幕府の威光はみかどをもしのぐものである、ということを、満天下に知らしめねばならぬ」
というのが、頼綱の眼目であった。
だが。
行藤はそこまで幕府に強権を持たしめることには、違和感をいだいている。
あくまでも幕府は政治代行であり、さもなくば朝廷は不要となってしまうであろう。
(われら武士は身の置き所を間違えてはならぬ)
というのが、行藤の見識である。
そこには温度差があり、見る世界も違った。
この溝が埋まらないまま、行藤は上洛の途についている。
上洛すると行藤はまず佐介盛房に拝謁し、
「それがしは鎌倉より生殺与奪の権を委されておりますれば」
六波羅においてはどうか安んじられますよう、と言上した。
(つまり口を挟むな、という意味か)
貞藤は気づいたが、
「お主はそれが、傲慢だというのだ!」
滅多に手を上げないのが、珍しく行藤に扇で殴られた。
翌日。
早速まず後深草院のもとへ伺候し、
「かしこきあたりにあらせられましては、法皇さまこそ黒幕であると思し召しの由、うかがっておりまする」
「そは朕も聞いておる」
「ではそれがまことか否か、この行藤めが代わりとなって確かめまする」
行藤はいった。
次に向かったのは亀山法皇の御所である。
後嵯峨上皇のおぼえめでたかった行藤が幕府から派遣されたことに、
「今は亡き上皇さんが聞いたらば、なんと思し召されようか」
亀山法皇は親しげに行藤に問いかけた。
が。
「しかしながら法皇さま、一の院さま(後深草院)はみかどを殺めまいらせんとした黒幕は法皇さまではないか、との目を周りが向けておるのを気にしておいでにあらせられました」
少し婉曲な言い回しで、しかしこれは兄弟喧嘩ではないのかとも言いたげな顔を行藤はしてみせたのである。
「さにあらず、聞けば鯰尾の太刀は三条家より誰かが勝手に盗んだとも聞いておる」
取り巻きの公家どもからの声は、行藤にはやかましいものであった。
「ではどう盗まれたのか、どなたか証を立てられるお方はおりまするか?」
証がなければ嫌疑は晴れぬ、と言い切ってから、
「もとを正せば、これは先の上皇さまが長幼の序列に反してみかどを決められた、いわば朝廷のつけでございまする」
その払いを幕府がせねばならぬ道理はございませぬ、と行藤はしたたかにいい放った。
「無礼やないか行藤」
「ならば、幕府に刃向かわれるおつもりにございますか?」
それがしは名代として生殺与奪の権を与えられておりまする、と続けてから、
「この行藤に手向かうお方は幕府に刃向かう者として裁かねばならなくなりまするが、いかがあそばしまするか?」
言葉は丁寧だが、明らかな脅しに近い。
たちまち静まった。
「それがしは事を荒立てるために参ったのではございませぬ」
無駄に血を流さぬために、ただまことのことをなさんとするまでにございまする、といった。
「では行藤…そちゃ」
「それがしが、すべてはからいまする」
行藤は退出した。
数日間。
行藤は徹底した調査をみずからおこない、その上で裁決を下すべく後深草院と亀山院の使者を呼び出した。
「これは内々の沙汰でございますが」
といってから、
「みかどを殺めまいらせんとした源は、一の院さまと法皇さまの喧嘩にある…として、式目の喧嘩両成敗に照らし合わせ、どちらも流罪が妥当であるという話が出て参り申した」
使者はともに驚いた。
「それはあまりにも殺生にございまする」
どちらも慌てふためいたが、行藤は平然とした面構えで、
「これで上皇さま以来のつけの払いもかたがつきまする」
これほど素晴らしい沙汰はない、というのである。
さらに。
「天下を二つに割らんとするほどの大騒動の大もとを残しておきながら、幕府の所為と騒がれるのはいかがかと存ずる」
行藤の取り付く島すらない様相に恐れをなした使者は、あたふた戻るとそれぞれ後深草院と亀山法皇に伝えた。
聞いた亀山法皇は、
「麿は疑われておるゆえ、そうとられても何も申せぬ」
とこぼしたが、黙っていないのは後深草院である。
「我が子を殺められそうになったのに、幕府に罪人として裁かれるなぞ前代未聞ではないか」
鎌倉へ直談判いたす、といった剣幕で、実際に出駕をしようとして近臣に止められたほどである。
が。
どちらかが憤ることが、行藤の目論見である。
「そこまで仰せなば、これよりは兄弟あい手を携えて天下を安らけくせん、と万民に知らしめていただきとうございます」
つまり手打ちをせよ、といったのである。
「それはどういうことや?」
「鯰尾の太刀は浅原為頼の一味が勝手に盗んだもので、一の院さまにも法皇さまにも関わりなきことを、みずからお示しいただければよろしいのでございます」
つまり伏見天皇の暗殺未遂と両統の抗争は別件として扱う、と行藤は示したのである。
「さすれば、喧嘩両成敗の喧嘩そのものがなくなりまする」
つまり流罪は免れる、というのである。
「それでも一の院さまがご納得いただけぬとあらば、一の院さまにも法皇さまにも、佐渡か隠岐あたりにお移りいただく仕儀となりまする」
こうなると両統は和睦しかないであろう。
こうして。
無事に後深草院と亀山法皇の和睦は成立し、浅原為頼の御所闖入事件は物盗りの蛮行、という決着をみたのである。
この話題はたちまち洛中では持ちきりとなり、
──まだ鎌倉に武士らしい武士がおった。
というので、驚いた者すらあった。
確かに。
政治的に難しい事件である。
御所という聖域に近い場所で起きた事件だけに、幕府では腫れ物にさわるような扱いであった。
が、それを行藤が軽々とどこにも傷のつかないように裁いてみせたことで、
「二階堂判官は、出来る」
という噂が上がったことはいうまでもない。
始末がつくと行藤は帰途についた。