【完】『海の擾乱』

7 神々のたそがれ

正安三年正月。

行藤が弱った躯を押して上洛するはめになったのは、亀山法皇から来た要請による。

正安二年の段階で、皇位は後深草院系の伏見天皇、後伏見天皇と二代続いており、亀山法皇系の皇子と交互に嗣ぐ「両統迭立」が行われていなかったのが最大の原因であった。

──幕府が両統を交互に嗣ぐよう仕向けたのであるから、幕府が管理を行うのが正論である。

という論理を、亀山法皇から突きつけられたのである。

結論から先にいうと調整の結果、亀山法皇系の邦治親王が立太子することとなったのだが、

「出来れば二階堂判官に、幕府側からは来てもらいたい」

という強い叡慮もあり、行藤が行かざるを得なくなっていたのであった。

亀山法皇は行藤に、

「もし何らかの理由でこの原則が守られなかった場合にはどういたすべきか」

とのご下問があり、行藤は次のように答えた。

「本来嗣ぐべきお方が何らかの訳で嗣げぬ折には、中継ぎを立て、早い内に嗣ぐべきお方が嗣げるよう差配しておくべきである」

といった内容で、これにはいたく亀山法皇も得心された様子で、

「これを是とする」

とみずから、仰せ出だされた。

この件については余談があって、このとき嗣いだ後二条天皇が二十四歳という早さで崩御された際、皇子の邦良親王が幼少であったことから、中継ぎとして弟宮が践祚した。

これはのちに幕府が揺らぐ原因となるのだが、ここでは誰も知るよすがはない。

ところで。

このとき亀山法皇は歌会の席で幾人か公卿や僧、親王などを引き合わせている。

「わが孫の尊治である」

と行藤が引見の栄に浴したのは、尊治親王であった。

「この皇子はやることなすことが剛毅での、武士に生まれたならば、どれだけ立派になったか知れぬ」

いささか皇族には豪に過ぎる、とのちに亀山法皇は述べている。

「これなるは二階堂判官行藤、昔から六波羅の知恵袋とも呼ばれておる」

行藤は拝謁した。

尊治親王は行藤を見るなり、

「そちは幕府が長続きすると思うか、思わぬか──答えよ」

と訊いてきた。

「皇子さま、むしろ今のままで長続き出来る…とお思いでございますか?」

尊治親王は言葉に詰まった。

「そうしたものは、おのれでしかと見極めるものにございます」

人に訊くようなものではございませぬ、と行藤は殻を割ったような物言いをした。

「では見極めるには、どのようにすればよいのだ?」

「まずは学問をしっかり学ばれませ。さらに広く世を知らねばなりませぬ。それと、民を思いやる大慈大悲のみ心をお持ちくださりませ」

さすればおのずとわかる日が参ります、と行藤はいい置き、

「くれぐれも、道を誤られませぬよう」

深々と頭を下げた。

「近頃はそなたのように憚らず物言いを出来る者の少なくなったことよ」

愉快々々、と亀山法皇は呵々と大笑した。


鎌倉へ戻った行藤を見て、藤子は驚いた。

馬に乗る力も尽きたのか、牛車に乗り、漆塗の杖までついていたのである。

杖は例の怪我から時折使い始めていたが、

「牛車は都で法皇さまよりたまわった」

藤子はますます驚いた。

身体はぼろぼろになっていたが、頭脳は健在であったようで、嫡男の貞藤が少しでも驕慢な言動を取ろうものなら、

「そなたに家を嗣がせるとまだわしは決めたわけではない」

と暗に貞藤に圧力をかける叱責が飛んできた。

が。

正安四年も三月を迎える頃には、

「いよいよ花も見納めであろうゆえ、ゆるりと眺めたいものだ」

といい、遊山に出かけることそのものが少なかったのが、藤子と円覚寺や東慶寺まで小さな旅をすることが増えた。

四月。

すべての公職を退いた行藤は、藤子と新長谷寺へ参詣することを思い立った。

「そなたはついて参れ」

李義勇と供回りをつれての美濃ゆきである。

「ついては」

貞藤に家督を定め、弟たちには貞藤によく仕えるよう行藤はいい残したのであった。

出立したのは五月の末で、途中には箱根神社や三島大社といった寺社をめぐり、富士を眺めながら駿河を越え、熱田神宮からは船で新長谷寺へ向かった。

正安二年に新長谷寺は火災で焼け落ち、そのため今は再建のさなかであった。

「せめて落慶までは見たいものよ」

そういって美濃へ入ったのは七月で、長旅の疲れが出たのか床につきがちな日が続くようになった。

「お加減はいかがにございますか」

藤子は顔を覗き込んだ。

「大事ない」

それより、と行藤はいう。

「そなたもとんだ武士の妻になったもので、しかし縁あってわれらは夫婦となった」

憎からず思うておったぞ、と藤子の手を握った。

「せめて側室でも置かれれば良かったものを…」

「前に藤子がおるゆえ側室は置かぬ、と申したではないか」

藤子と行藤が思えば初めて夫婦らしい日をすごしているようにも思われた。

八月を迎えた。

一進一退の病状ではあったが、無事に仲秋の名月を藤子と行藤は眺めることができた。

「そなたは覚えておるかはわからぬが、月見がしたいとそなたが申したゆえ、六波羅の番役を早引きしたことがあったな」

「あのときは申し訳ございませぬ」

大事なお役を、と藤子はうなだれた。

「いやいや、あれでこそ藤子らしいのだ」

ああでなければ妻であってもつまらなんだ、と行藤は上機嫌でいった。

この七日後、道暁入道こと二階堂判官行藤は五十七年の生涯を静かに閉じた。

末期を看取った藤子は無事に埋葬が済むと髪を下ろし尼となり、京で娘の理趣尼と晩年を過ごしている。

さて。

ここから先は遺された人々の話である。

李義勇は行藤の没後、殉死をしようとして藤子に制止された。

その後は鎌倉へ早馬として走り、さらには陸奥や備中、長門などに散っていた行藤の子たちに知らせ、鎌倉へ戻ったあとは、嫡男の貞藤に暇を出されたのを機に鎌倉を離れた。

次に。

鎌倉の執権御所に行藤の訃報が知らされると、執権の北条師時(貞時のいとこ)は三日間の歌舞音曲の差控を命じ、その死を悼んだ。

その後の北条貞時はというと、北条師時に執権を譲ったものの、権力だけは手放さないまま十年間の院政を敷いたのち、禅に凝って散財を繰り返したり毎日酒宴を開いて遊び女を御所に引き入れたりした挙げ句、行藤が亡くなった九年後に四十一歳で世を去った。

また。

かつて行藤に面罵された長崎高綱はのち出家し円喜と号し、北条高時(貞時の子)の乳母夫として権勢を握り、賄賂政治を氾濫させたのち、のちに新田義貞に討ち取られた。

いっぽう。

行藤が最後にまみえた尊治親王はのちに後二条天皇のあとをうけて立太子し、花園天皇のあと即位し後醍醐天皇と生前から名乗った。

その後は鎌倉幕府を崩壊へと導いたが、やがて後深草院系の政権に京を逐われ、吉野で崩御された。

さて。

行藤のあとをついだ二階堂貞藤は父と同じく判官に叙せられ、北条貞時から八代の執権に仕え、

「鎌倉一の知恵袋」

と呼ばれる有能な官吏となった。

が、生来の傲岸な気性がわざわいしてたびたび問題のある発言をするなど、やがて幕府内ではふるわない存在となって、父の行藤を凌駕することはできなかった。

鎌倉幕府が滅亡したあとは持ち前の博学を買われ、後醍醐天皇のいわゆる専門的ブレーンとして迎えられたが、謀叛ありとして捕らえられ、やがて首を斬られた。

さらに。

行藤と同い年の竹崎季長は、正応六年に異国との合戦の様子を絵巻に描かせ、神社に奉納した。

これがいわゆる「蒙古襲来絵詞」で、そこにはみずからの武勲を認めてくれた行藤や安達泰盛など幕府への恩義が込められてある。

絵巻を奉納したのち、竹崎季長は海東の地頭として平穏にすごし、行藤が亡くなって四半世紀ちかくが過ぎ去った正中二年、七十九歳の天寿を全うした。

奇しくもそれは、後醍醐天皇が正中の変を起こした翌年で、幕府の瓦解が目に見え始めた時期でもある。

最後に。

行藤によって僧となった夢窓疎石は、鎌倉の幕府に重用されたあと後醍醐天皇によって京へ招聘され、後醍醐天皇の崩御の折には足利幕府に天龍寺の創建を提言し、戦乱で荒廃した禅宗の復興に尽力した。

その合間に夢窓疎石は新長谷寺の行藤の墓を訪れているが、そのとき苔むしたままに荒れているのを見つけると、必ず手ずから苔を剥いで、花を手向けていたとされる。

時折墓石に破損が見られるときには手ずから直し、

「判官どのが悪かったのではない。時があまりにも悪すぎた」

といい、みずからを学問や仏教の道へと進ませてくれた恩人の菩提を弔いながら、観応六年九月に七十七歳で寂した。

今は、来る人もほとんどなく、行藤は美濃の平野で静かに眠っている。





(完)


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