【完】『海の擾乱』

5 兆候

噂は、二つある。

ひとつは、宋との戦に明け暮れている蒙古が次に狙いを定めているのは日本である…というもので、これは鎌倉から切通を隔てた、六浦湊に出入りする商人どもが囁く噂でもあった。

で。

もうひとつは、宮将軍の宗尊親王をそそのかしたとされる側近が上洛した、というものである。

これは、見覚えのある某という将軍御所の近臣を、いるはずのない内裏の近くで行藤が見かけたので、間違いない話であった。

すでに注進は極楽寺時茂に告げてある。

時茂は頭を抱えた。

「何も、このような折に」

仕様もないであろう。

春先の雹で壊れた屋敷を直している最中なのである。

「行藤はいかが思う」

「もしかすると、頼経公の二の舞になるやも分かりませぬが…」

頼経公、というのは旧知の一条家経のおじで、鎌倉の将軍をつとめた藤原頼経のことである。

かつて頼経は執権との政争を巻き起こし、抗争の挙げ句鎌倉から追放された人物である。

「宮様は、もしかしたら取り巻きに担ぎ上げられたのやも分かりませぬな」

何しろ担ぐ神輿は目立てば目立つほど押し出しがききますゆえ──と、行藤はいった。

「誰が担いだかは存じませぬが、事を荒立てては院の上皇さまが、いかが思し召されることか…」

承久の合戦のようなことは、避けねばなりますまい…というのが行藤の持論であった。

「ともかく戦はせぬようにせねばなりませぬ。打ち物取っての騒ぎを引き起こしたところで、米や麦が増えるわけでもありますまいゆえ」

行藤はここ数年が不作であることを知っている。

「何より民の暮らしを案じておられる松下禅尼さまが聞いたらば、いかが思し召されることか」

松下禅尼とは北条時頼の生母で、実家が安達家なだけに侍所別当の安達泰盛とは親戚にあたる。

この禅尼は質素と倹約をつねに旨とし、

「障子が破れても全て張り替えずに、破れた箇所のみ切り貼りすれば良い」

と、日頃から侍女をたしなめていた。

そうした賢婦人として知られた松下禅尼は、つねづね将軍御所や北条一門でイザコザが起きることを案じ、時には有力御家人の足利家や小山家、二階堂家などの一門を登用することにより、未然にトラブルを防ぐという政治のバランスを取る離れ業まで、やってのけている。

そのような松下禅尼が鎌倉にはいるのである。

「とにかく禅尼さまがおわす限り、少なくとも北条一門は無事かと存じますが」

問題は、かつて北条家に討たれた三浦家や梶原家、千葉家や伊賀家の残党であると行藤はいった。

「かの者共が将軍様や朝廷を担いで集まれば、また戦ばかりの世になるのは目に見えております」

そこを未然に防ぐのが、手立てというものでございましょう──というのが行藤の見立てであった。

時茂は行藤にそれを文書にするよう命じ、行藤もそれらをしたためて家来に持たせて鎌倉まで差し下すこととなった。

で。

行藤の書状が届いた途端、幕府では動きが慌ただしくなった。

当時の幕府では二階堂行藤というのは無名の御家人でしかない。

しかし。

「将軍は火種になる」

と判断したのは、得宗家に仕え始めた、平頼綱という被官であった。

頼綱は連署であるじの北条時宗に具申し、時宗が執権北条政村に対し、

「神秘の沙汰を開いてくださらぬか」

と、打診したのである。

神秘の沙汰。

いわゆる対策協議なのだが、集まるのは執権と連署、侍所別当と主だった重臣で、いわば首脳と担当閣僚の密室会議である。

まだ執権が北条時頼だった時分にはなかった機能だが、時頼が執権を極楽寺長時(時茂の兄)に譲った辺りからこの秘密会議は持たれ始め、そのため極楽寺長時は政治を行わず、京にいた頃と同じように和歌三昧の暮らしぶりであったという。

ただ。

今回の会議はクーデターに近いものがある。

時茂も行藤もそうした流れになるとは考えてなかったようで、

──差し詰め、将軍の官位でも上げるために来たのではないのか。

という程度の認識であったらしい。


話は前後する。

宗尊親王の病状は一進一退で、定期的に御所に詰めていた御息所が、幼い一の宮の件があるというので、一時的に御座所から移ることとなった。

が。

当初、平癒の祈祷に差し下された良基僧正が、御息所と懇意となり、密会し姦通したという説が、にわかに流布され始めたのである。

そうしたなか、行藤の例の書状は来た。

いっぽう。

京に密通の説が流れてきたのは入れ違いで、噂を聞いた後嵯峨上皇は親王をたしなめるべく、

「しかるべき武家を鎌倉へ下すべし」

と、六波羅の探題に下問の使いが来たのである。

探題北方の極楽寺時茂と、探題南方の北条時輔は院使を前に緊急で開いた合議の席で、

「適任の者は一人いる」

と時輔はいい、二階堂行藤であると即答した。

「かの者は鎌倉の評定衆の一族で久我どのの縁者にして、一条どの、冷泉どのとも付き合いがある。これほど朝幕の間を取り持てる者は、なかろうと存じます」

院の使いはそれを持ち帰り上皇にそのまま奏上したのだが、このとき上皇は行藤という聞いたこともない若者に興味を持ち、

「齢二十歳にして久我や冷泉、一条と昵懇とはおもしろい」

一度いかなる者か、会うて見ておきたい──と、にわかに廷臣に仰せ出だされた。

翌日。

行藤は時茂から、

「院の上皇さまの許へ参内されよ」

という命を受けた。

行藤はすぐ藤子を呼び、

「上皇さまの御所に参内をせよ、というが」

院など参内したこともなくつてもないゆえ行きようがない、といった。

「そなたの縁者に院の者はあるか」

実は、と藤子はゆっくり口を開いた。

「わたくしは上皇さまとは血すじがつながってございます」

行藤は絶句した。

「上皇さまのおん母上さまは、わたくしの父上といとこの間柄にございます」

上皇の生母は土御門家の出だが、その生母の父は藤子の大おじにあたる。

「わたくしが供をいたしまする」

急ぎ束帯を──と、藤子は侍女に命じた。

騎馬の行藤と牛車に乗った藤子は仙洞御所の門に着くと、

「久我大納言がむすめ源藤子、院の宣旨により二階堂判官藤原行藤の供として参内」

と、さっそく申次に取り次がせた。

申次が院に上奏すると、

「拝謁を許す」

との由で、藤子を待たせ、行藤は御所に通された。

(いったいいかなる者か)

上皇はひそかに蔀戸の影から御所の白洲を歩く行藤を見たのだが、

(なんや、関東の武士やいうたら怖いものやと思うてたが)

意外に目元の涼しい柔和な顔立ちであることに、まず驚いた。

近臣からは、

「歳は帝より三つ兄との由にございます」

ときいて、特に嫌う理由もなくなっていたようである。

当時の亀山天皇は上皇が特に鍾愛しており、後深草天皇を廃位させて嗣がしめたこともあり、これはのちの南北朝の原因ともなっている。

それはいい。

(あの者の妻の父と朕の母とはいとこの間とは聞いたが)

それなら、と上皇は日ごろあった幕府への不満も多少やわらいだようであった。

すでに白洲にぬかづいていた行藤は、

「お成り遊ばします」

という声で、頭を下げた。

物音がした。

どうやら着座したらしいが直視はできない。

が。

御簾が動いた。

近臣から、

「昇殿を許す」

との御諚があり、行藤は宸殿の縁にひかえた。

「本日はおそれ多くも拝謁を賜り」

と、行藤は取り次ぎに口上をのべはじめたが、

「直答を許す」

とゆるしが出た。

「そのほうを呼び出したのは他にあらず」

と、くだんの密通の話を出して、

「六波羅の両探題よりそちの名が出たゆえ、朕が使いにふさわしきか確かめるべく、来てもろうた」

と、上皇は「面を上げよ」といった。

行藤は戸惑ったが、

「院の命である。面を上げられよ」

顔を上げた。

見ると目鼻立ちのはっきりした、心ばえの穏やかそうな若者である。

「何か官位をやろう」

すでに上皇は気に入ったという様子で、

「好きなものをとらす」

「恐れながら」

それがしは幕府の御家人にして、しかもいまだ家を嗣いでおりませぬゆえ、幕府の許しも何もなくてはお受けすることができませぬ──と行藤はこたえた。

控え目な態度を上皇はたいそう喜んだ風で、

「そうか」

というと伝奏を呼び、しばらくして黄金の拵の短刀が出てきた。

「朕の刀である。家の守りにせよ」

と、綸言まで賜わった。

「そちは将軍の消息をつぶさに見て、朕に具申して欲しいのや」

朕が目鼻となり、よく検分して参れ──との命をうけ、行藤は仙洞御所を退出した。

足取りは、藤子がいるにもかかわらず重かった。
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