【完】『海の擾乱』
8 国書、鎌倉へ至る
くだんの御前会議の以後、行藤は判官と六波羅の出仕を頻繁に休むようになった。
「物忌みでございます」
とだけ、行藤はいう。
が。
それまで勤勉に勤めあげていただけに、ちょっとした憶測を呼んだ噂になりつつある。
──鎌倉の頼綱どのあたりから、睨まれたのではあるまいか。
後嵯峨上皇の院使までつとめたいう立場だけに、何もなくても騒ぎになるというのは行藤も分かっていたのたが、
「よもや出仕を休んだだけで、こうなるとはな」
行藤は藤子に向かって苦笑いした。
「武士とは厄介なものでございますね」
「院の使いをしただけで、武士は鎌倉から睨まれるといわれるからのう」
力のない笑いが、藤子にはむなしい。
他方で。
このころ博多に戻っていた謝国明は、高麗からの者が博多に来ているのが増えている事実に気づいていた。
壱岐を往き来する松浦党の水軍の話では、
「高麗に蒙古が攻め寄せ、命からがら逃げてきたのが増えた」
というのである。
話をつなぎあわせると高麗は蒙古との戦闘で国論が主戦派と和平派に割れ、意思の統一がままならないまま重臣が派閥抗争に明け暮れている…といったのである。
(まるで鎌倉ではないか)
謝国明から届いた書状で、行藤はいきさつを知ったのだが、
(また誰か家経のようなことでもいい出すのではあるまいな)
そこまで考えをめぐらせなくてはならないほど、誰彼なく疑心暗鬼になってきているのは確かであった。
朝廷は無責任、鎌倉は血で血を洗う覇権争い、高麗は派閥が割れて存亡の危機…どこもかしこも、誰か火中の栗を拾おうといった者はない。
(これでは)
蒙古の属国になってしまうのではとも感じたが、
(むしろなるならなるで)
いっそ属国にされたほうが鎌倉も目が覚めるのではなかろうか、と行藤は思ったことがあった。
その話を、行藤は北条時輔にだけ打ち明けると、
「それは他言してはなりませぬ」
と、逆に時輔のほうが慌てたのである。
「実はそれがしも」
同じ考えであることを明かし、
「もはや鎌倉も京も、いいだけ腐っておる」
むしろ異国の配下に置かれ屈辱を味わったほうが、この日本の先々によい…と、時輔はいった。
さらに時輔は、これはそれがしが時宗の兄だからではない、といい、
「人にはときに痛い目に遭わねば、気がつかぬことがある」
それで気がつけばわれらの我慢も報われよう、というのである。
「われらは鎌倉から離れておる。鎌倉から離れておるからこそ、鎌倉では見えず、離れてこそ見えるものもあるのだ」
行藤は内心、大いにうなずいていた。
数日後。
藤子は行藤を呼んだ。
「…なにごとぞ」
「ややが、お腹にとまりましてございます」
「…そうか」
行藤が思ったより驚かなかったのを藤子は疑問に思ったらしく、
「お子は嫌いでございますか?」
「いや、そうではない」
実は判官と六波羅をやめて二人で旅でもと思うておったのだが、と行藤はいった。
「…なぜおやめにならねばならぬのでございますか」
行藤さまが何か悪しきことでもされたのであればやめてもよろしゅうございましょうが、と藤子はいい、
「行藤さまは悪くはございませぬ。悪者でもない者がやめねばならぬ世であれば、藤子は子など産みとうございませぬ」
行藤は苦笑いをして、
「ならば今少し遊山は先にいたそう」
藤子にはかなわぬ、と行藤は観念した顔をした。
行藤には日課がある。
書庫から取り出した漢籍を読んでから床につく、といったもので、そのため学に淫するようなところがあり、行藤その人はいささか癖の強い人物ながら、探題の極楽寺時茂からは頼もしがられていた。
日頃は口の重い、目立たぬ言動である。
が。
かつてこういったことがあった。
六波羅の外れで追い剥ぎが出る、との噂が出たときのことだが、みなが追捕の者をやろうと人選に入ろうとした折、
「捕まえてもまた別の追い剥ぎが出ましょうゆえ、道を見晴らしのよい野原にしてしまえば、手はかかりませぬ」
と、森に火をつけさせようとして、行藤は時茂に止められたことがあった。
「何とも乱暴な」
と、のちに公卿のあいだではささやかれたが、
「物事を矯めるには根本を矯めねば治りませぬ」
小手先のことをして治したところで二度も三度も手間になるのが関の山だ、というのが行藤の読みである。
「それより根元から悪事を絶ってしまうほうが、手間がかからず理にかないましょう」
なので森の暗がりをなくして追い剥ぎが隠れられないようにするのがよい、というのである。
「これを順逆の理と申し、宋ではそれを重んじております」
順逆の理。
ものには摂理によった順序や秩序があり、それを守れば世は乱れない、といった考えである。
「なれどそれでは、隠れやすき他所に追い剥ぎが出るではないか」
「追い剥ぎとなる前によき稼ぎ先を民に与えるのが、われら六波羅の仕事であろうかと存じまする」
例えば力の余った者はやんごとなき公卿の方々の護衛を、知恵のある者にはそれぞれ持ち前の知恵が役立つ書き物を、振り分けてつかわすのが幕府の仕事でございましょう、というのである。
「人は法で締め上げれば抜けようとし、金で縛ろうとすれば逃げ道を考えるものにございます」
金も法も操るのは人でございましょう、といい
「人の心を掴むことこそ、金も使わず法も使わず人を従わせる、最善の策でございましょう」
これには陪席の北条時輔ですら衝撃をおぼえたらしく、
「二階堂どのは、何か鎌倉に含むところでもお持ちか」
と、思わず問い質したほどであった。
年が改まった文永四年、藤子は男児を産んだ。
幼名は、
「次郎」
と、二階堂家の嫡男が代々名乗る名をつけた。
「なぜ次郎なのかは分からぬが、初代の行政公から幼名は次郎となっておる」
藤子も不思議がったが、どうやらそういうことらかしかった。
その文永四年も八月を過ぎた頃、博多ではある噂が流れはじめている。
「蒙古の国書がくる」
という話である。
理由はこの年の正月、国書を携えた高麗使が対馬の島民といざこざを起こし、渡航に失敗していたからであった。
博多からの噂は京の西園寺家や、すでに六波羅の探題にも達しており、朝廷では高辻長成という学者を急遽召し出して意見を述べさしめている。
果たして九月、高麗使の潘阜、金有成が蒙古の国書を携えてきた。
当時は西園寺家のように宋との交易で巨利を得ている者もあり、簡単には強硬な路線をとれずにいたのも、現実である。
こうした中、宋から逃れてきた東巌慧安という禅僧が和議の話を聞いて憤り、
「日本は軟弱なり」
と、怒りをあらわにする事案もあった。
行藤が謝国明から聞いてた蒙古の実情というのは残酷なもので、
「男は子供であろうが皆殺し、女は手のひらに穴を開けて縄を通して数珠繋ぎにし売り買いするそうだ」
というものである。
謝国明も宋人である以上、そこは割り引いて考えなければならないが、ともあれ行藤には驚き以外何も感じられなかった。
文永五年正月。
廟議によって、蒙古からの国書をはるばる鎌倉まで差し下すこととなり、その使者に行藤は選ばれた。
「そちならば万端よろしくやってくれようゆえ」
頼むぞ、とは一条実経からの申し渡しであった。
「さすがに宿次の奉書よろしく、届け捨てというわけにもゆくまいテ」
と、藤子にだけは本音を漏らした。
道中は乗り付けぬ馬で、何とも鞍の心地が落ち着かなかったのだが、
「武士ゆえ仕方があるまい」
と、家来にこぼした。
鎌倉に着いたのは正月の賑やかさが失せ始めた、一月も半ばを過ぎた辺りである。
宇都宮逗子の幕府御座所へ伺候すると、渋い顔をした平頼綱が取り次いだ。
行藤はそのまま帰ろうと後ろを向いたのだが、
「二階堂どの、お待ちくだされ」
せっかくゆえご挨拶されては、と頼綱に伴われ連署の北条時宗のもとまで連れて行かれるはめになった。
対面所で時宗は行藤を見るなり、
「六波羅の兄者はいかがであろうか」
と、めずらしく時輔の話題になった。
「時折お伺いいたしますがご健勝にて、無事つつがなく幕府の御用をお勤め遊ばされておられまする」
そうか、と時宗はいい、
「この頃、執権の政村どののお体がよろしくなくてな。この国難の折から、次の執権を早めに決めねばならぬのだが」
誰がよいであろう、と時宗は行藤に訊ねた。
「この行藤は長らく京におりますので、不案内にございます」
「そう申すな。われらは義理だが従兄弟ではないか」
行藤の母親は安保泰実の娘だが、極楽寺重時の養女として嫁いでいる。時宗の母も大江季光の娘だが極楽寺家の養女で、いわば義理の従兄弟どうしという間柄になる。
「このようなときには京で見聞きの広い行藤どのこそ頼りになる」
ときに時宗にはこうした、人をたらしこむ一面がある。
ならば申し上げます、と行藤はいい、
「京での連署どのの評判はありていに申せばよろしくございませぬ」
と、かつて宗尊親王の件で後嵯峨上皇の院使であった行藤を頼綱が罪人扱いしたが、
「あれで公卿の衆は、幕府は御上をないがしろにすると憤って、いささか騒々しゅうございました」
頼綱は露骨に嫌な顔をした。
そうした中で新しく執権を決めるとなると難しいものがございましょう、というのである。
「選ぶとなれば二つに一つ、京に詳しきお方か、京の顔色をうかがうことなく、力強き断を下せるお方かになりましょう」
「ならば誰がよい」
頼綱が食い下がった。
「少なくとも頼綱どのではないことだけは、確かでございます」
頼綱は苦い顔をした。
「よもや時輔どのでは…?」
「はっきり申せば、あの方では勤まりませぬ」
「なにゆえじゃ」
「あのお方は公卿や朝廷とほとんど付き合いがなく、北方の時茂どのすら、意をはかりかねておわします」
ああ世間知らずでは執権は勤まりませぬ、と行藤はいい、
「ただ、連署どのは京での評判が芳しくございませぬゆえ」
「なぜ厳しいのだ」
「御上をないがしろにする御内人を重用するようでは先が思いやられる、という話は聞いたことがございます」
なるほど、と時宗はうなずいた。
「頼綱も嫌われたものよ」
「それがしは頼綱どのとは名指しておりませぬ」
ただそれだけはお留め置きくだされますよう、と行藤はいった。
「あいわかった」
対面所を辞去すると行藤は天を仰いで、ふぅっと大きな息をついた。