HAPPY CLOVER 4-学園祭に恋して-
家庭科室のドアは常に開放されているらしい。
私は思い切ってその戸口に立った。
室内では教育実習生たちが歓談したり、日誌に向き合っていたり、それぞれがのびのびと実習に取り組んでいる様子が窺える。職員室に比べるとここは格段に居心地がよさそうだ。
そして室内を見渡していた私の目に、女子生徒の人だかりが飛び込んできた。
「わっ、もしかしてあれ、タニーのファンの女子たち?」
「タニーって! 酒井さん、面白すぎ!」
「ていうか、この状況に軽くジェラシー。いや、この場合どちらに嫉妬しているのかよくわかんないけど」
「ん? ……ってことは酒井(さかい)さん、谷口(たにぐち)先生みたいなイケメンが好きなの?」
「うーん、わからん。カッコいいのは認めるけど。でもやっぱり生徒にモッテモテなのが許せないっていうか。それを言うならアンタもだ、アヤピー」
私の背後でそんな会話が繰り広げられ、振り返ることもできないでいると、ポンと肩を叩かれた。家庭科室の入り口で直立不動の私に、綾香先生は「高橋さん、だよね?」と声を掛けてきた。
「は、はい!」
綾香先生の隣には、真面目を絵に描いたような地味な装いの教育実習生の姿があった。見た感じ、綾香先生より少し年上のような印象を受ける。
しかし、酒井先生と言ったか。この人……まるで私の数年後のようだ。髪型もちょっと似ているし、何よりメガネ! この服装でこの髪型でこのメガネは、正直に言って全然イケてない。
――と、自分を棚に上げて「イケてない」とか偉そうなことを言っている場合じゃなかった。
地味なくせに辛口な酒井先生は綾香先生に「モッテモテ」と一言だけ言い残して自席に向かう。
綾香先生は酒井先生の背中を苦笑しながら見送ると、「どうしたの?」と私の顔を覗きこんできた。美人が目の前にいるというだけで私の心臓はドキドキする。緊張しながら覚悟を決めて言った。
「あの、ちょっとご相談したいことが」
「いいよ。……誰もいないところのほうがいいかな?」
先生は私の様子から敏感に何かを察知したらしい。返事をしないうちに「こっちに来て」と家庭科準備室と書かれたドアのほうへ歩き出した。
準備室には比較的新型のミシンが数台置いてあった。他には埃をかぶった古いトルソーが立ちはだかっていたり、色あせた型紙が無造作に広げられていたり……。
この無法地帯を目の当たりにして綾香先生は一瞬その美しい顔を歪めたが、すぐに気を取り直して部屋の奥まで進んで行った。私もその後をついて行く。
「まぁ、あまり綺麗なところじゃないけど、内緒話にはもってこいの部屋だね」
「……そうですね」
綾香先生は窓に背中を預けて腕組みをした。それが私には「どこからでもかかってこい」の合図に見える。
「あの、実はいろいろお聞きしたいことがあって」
ニッコリと微笑みながらうんうんと首を縦に振る先生の顔を見て、私は何から話すべきかと慌てた。
そして結局、こんなことを言ってしまったのだ。
「先生。私、勉強する意味がわからなくなってしまいました」
綾香先生は目を大きく開き、それからまたうんうんと頷いた。
「そういうこと、あるよね」
――え、あるんですか!?
たぶん私は驚いた表情をしてしまったのだろう。先生はクスッと笑う。
「でも意味とか考え出すと大変だよ。本当は何も考えないでとにかく必死に勉強するのが、受験には有効だと思う」
「はぁ……」
「だけどやっぱり考えたくなるんだよね。『勉強する意味は?』『生きている意味は?』『私があの人を好きなことに何の意味が?』とか、ね」
私の喉がゴクリと鳴った。
「先生もそんなことを考えるんですか?」
「まぁね。私、結構理屈っぽいんだ」
「はぁ」
どう反応すればいいのかよくわからないが、先生は私の戸惑いなどお見通しという顔で続けた。
「まぁ、人間ってヤツは考えるから厄介なんだよね。でも考えることが人間の特技でもある。だとしたら、考えることで気がつきたいってことじゃないかな」
「気がつく、ですか」
「そう。たとえば私は英語を教えているけど、文法を覚えても会話の段階で『えっと、関係代名詞が何だっけ?』なんて考えていたら話にならないでしょ」
――確かに。
「『じゃ、文法なんか覚えなくてもいいや』ってなると、そこでおしまい。だけど『英語と日本語は文法が全然似ていないけど、どうしてなんだろう』と考えてみたらどうかな。世界が広がらない?」
「そうですね」
「それを全ての物事に応用してみたらどうかな、って思うんだけど」
「でも、恋愛のことになるといくら考えても何もわかりません。相手の気持ちなんか想像してもわからないし」
いきなり恋愛に話を持っていく自分に驚きながら、先生の目を見つめた。笑われるかな、と思ったけど、綾香先生は真剣な表情をしている。
「高橋さん。あなたはもう大事なことに気がついている」
「……え?」
「相手のことがわからないんでしょ?」
「はい」
「それが他人と付き合うってこと。ホント、わけわかんないよね、彼氏とか」
――えええええ!?
わけがわからないのは先生の答えだと思ってしまった私は、出来の悪い生徒なのだろうか。
「付き合うということは、彼氏が意味不明だと気がつくこと……だと?」
「うーん、ちょっと違う」
「え?」
「他人は自分じゃないでしょ。だから考えてもわからなくて当然。でもそれに気がつかない人もいる」
――いや、だから、私も他人のことをわかるとは思ってないけど……。
「人は無意識に自分の意見が絶対正しくて我こそが常識の塊だと信じている。でもそうじゃないって立ちはだかるのが他人。問題はその他人の存在を、自分自身が認められるかどうかってこと」
私は思わず考え込んでしまった。これは思ったよりややこしいことになってきた。
この問答は非常にためになるけれども、今日の私に課せられた任務はもっと具体的な話だったはずだ。そうか、最初の質問が漠然としすぎていたのがいけなかったんだ。
こんな哲学的な話をしていたら、いつまで経ってもあの話題に到達しない気がする。それに綾香先生も決して暇ではないはず。
――ダメだ! 逃げるな、私!
――いや、逃げているわけではないけど、えっと、「他人」がなんだって?
――あああ、まずい。なんて切り出せばいいの!?
脳内は見事にパニック状態だった。焦った私は最終兵器、単刀直入作戦を発動した。
「先生。時間がないので、もっと具体的な相談をしてもいいですか?」
「いいよ」
――よし!
意気込んで、大きく息を吸った。
「えっと、仮にクラスメイト同士で付き合っていて、それがその……アレが来ないというような状況になった場合、ど、どうしたら……」
さすがに途中から綾香先生の顔つきが変わる。
「……高橋さんが、じゃないよね?」
慌てて頷くと、先生は少しホッとしたようだが、すぐにまた表情を曇らせた。
「じゃあ、友達の話?」
「あの、えっと、まぁ、その……」
「何日くらい経ってるの?」
「確か5日くらいです」
「そっか」
先生は沈痛な顔で目を閉じ、天井を仰いだ。それから急に私の顔を真正面から見つめるとニッコリと笑って見せる。
「10日」
「え?」
「大丈夫。10日で生理が来るわ。心配することはないと言ってあげて」
「……はい」
このときのことは一生忘れないだろう。
夕陽を背にした綾香先生の言葉はまるで神託のごとく、どこにも疑問を挟む余地はなかった。私は雷に打たれたような感覚だった。しばらく全身はおろか脳の細胞にいたるまで痺れていたのだ。
その言葉を大切に胸にしまいこみ、学校祭の準備に戻る私を綾香先生は優しい眼差しで見送ってくれた。
私は思い切ってその戸口に立った。
室内では教育実習生たちが歓談したり、日誌に向き合っていたり、それぞれがのびのびと実習に取り組んでいる様子が窺える。職員室に比べるとここは格段に居心地がよさそうだ。
そして室内を見渡していた私の目に、女子生徒の人だかりが飛び込んできた。
「わっ、もしかしてあれ、タニーのファンの女子たち?」
「タニーって! 酒井さん、面白すぎ!」
「ていうか、この状況に軽くジェラシー。いや、この場合どちらに嫉妬しているのかよくわかんないけど」
「ん? ……ってことは酒井(さかい)さん、谷口(たにぐち)先生みたいなイケメンが好きなの?」
「うーん、わからん。カッコいいのは認めるけど。でもやっぱり生徒にモッテモテなのが許せないっていうか。それを言うならアンタもだ、アヤピー」
私の背後でそんな会話が繰り広げられ、振り返ることもできないでいると、ポンと肩を叩かれた。家庭科室の入り口で直立不動の私に、綾香先生は「高橋さん、だよね?」と声を掛けてきた。
「は、はい!」
綾香先生の隣には、真面目を絵に描いたような地味な装いの教育実習生の姿があった。見た感じ、綾香先生より少し年上のような印象を受ける。
しかし、酒井先生と言ったか。この人……まるで私の数年後のようだ。髪型もちょっと似ているし、何よりメガネ! この服装でこの髪型でこのメガネは、正直に言って全然イケてない。
――と、自分を棚に上げて「イケてない」とか偉そうなことを言っている場合じゃなかった。
地味なくせに辛口な酒井先生は綾香先生に「モッテモテ」と一言だけ言い残して自席に向かう。
綾香先生は酒井先生の背中を苦笑しながら見送ると、「どうしたの?」と私の顔を覗きこんできた。美人が目の前にいるというだけで私の心臓はドキドキする。緊張しながら覚悟を決めて言った。
「あの、ちょっとご相談したいことが」
「いいよ。……誰もいないところのほうがいいかな?」
先生は私の様子から敏感に何かを察知したらしい。返事をしないうちに「こっちに来て」と家庭科準備室と書かれたドアのほうへ歩き出した。
準備室には比較的新型のミシンが数台置いてあった。他には埃をかぶった古いトルソーが立ちはだかっていたり、色あせた型紙が無造作に広げられていたり……。
この無法地帯を目の当たりにして綾香先生は一瞬その美しい顔を歪めたが、すぐに気を取り直して部屋の奥まで進んで行った。私もその後をついて行く。
「まぁ、あまり綺麗なところじゃないけど、内緒話にはもってこいの部屋だね」
「……そうですね」
綾香先生は窓に背中を預けて腕組みをした。それが私には「どこからでもかかってこい」の合図に見える。
「あの、実はいろいろお聞きしたいことがあって」
ニッコリと微笑みながらうんうんと首を縦に振る先生の顔を見て、私は何から話すべきかと慌てた。
そして結局、こんなことを言ってしまったのだ。
「先生。私、勉強する意味がわからなくなってしまいました」
綾香先生は目を大きく開き、それからまたうんうんと頷いた。
「そういうこと、あるよね」
――え、あるんですか!?
たぶん私は驚いた表情をしてしまったのだろう。先生はクスッと笑う。
「でも意味とか考え出すと大変だよ。本当は何も考えないでとにかく必死に勉強するのが、受験には有効だと思う」
「はぁ……」
「だけどやっぱり考えたくなるんだよね。『勉強する意味は?』『生きている意味は?』『私があの人を好きなことに何の意味が?』とか、ね」
私の喉がゴクリと鳴った。
「先生もそんなことを考えるんですか?」
「まぁね。私、結構理屈っぽいんだ」
「はぁ」
どう反応すればいいのかよくわからないが、先生は私の戸惑いなどお見通しという顔で続けた。
「まぁ、人間ってヤツは考えるから厄介なんだよね。でも考えることが人間の特技でもある。だとしたら、考えることで気がつきたいってことじゃないかな」
「気がつく、ですか」
「そう。たとえば私は英語を教えているけど、文法を覚えても会話の段階で『えっと、関係代名詞が何だっけ?』なんて考えていたら話にならないでしょ」
――確かに。
「『じゃ、文法なんか覚えなくてもいいや』ってなると、そこでおしまい。だけど『英語と日本語は文法が全然似ていないけど、どうしてなんだろう』と考えてみたらどうかな。世界が広がらない?」
「そうですね」
「それを全ての物事に応用してみたらどうかな、って思うんだけど」
「でも、恋愛のことになるといくら考えても何もわかりません。相手の気持ちなんか想像してもわからないし」
いきなり恋愛に話を持っていく自分に驚きながら、先生の目を見つめた。笑われるかな、と思ったけど、綾香先生は真剣な表情をしている。
「高橋さん。あなたはもう大事なことに気がついている」
「……え?」
「相手のことがわからないんでしょ?」
「はい」
「それが他人と付き合うってこと。ホント、わけわかんないよね、彼氏とか」
――えええええ!?
わけがわからないのは先生の答えだと思ってしまった私は、出来の悪い生徒なのだろうか。
「付き合うということは、彼氏が意味不明だと気がつくこと……だと?」
「うーん、ちょっと違う」
「え?」
「他人は自分じゃないでしょ。だから考えてもわからなくて当然。でもそれに気がつかない人もいる」
――いや、だから、私も他人のことをわかるとは思ってないけど……。
「人は無意識に自分の意見が絶対正しくて我こそが常識の塊だと信じている。でもそうじゃないって立ちはだかるのが他人。問題はその他人の存在を、自分自身が認められるかどうかってこと」
私は思わず考え込んでしまった。これは思ったよりややこしいことになってきた。
この問答は非常にためになるけれども、今日の私に課せられた任務はもっと具体的な話だったはずだ。そうか、最初の質問が漠然としすぎていたのがいけなかったんだ。
こんな哲学的な話をしていたら、いつまで経ってもあの話題に到達しない気がする。それに綾香先生も決して暇ではないはず。
――ダメだ! 逃げるな、私!
――いや、逃げているわけではないけど、えっと、「他人」がなんだって?
――あああ、まずい。なんて切り出せばいいの!?
脳内は見事にパニック状態だった。焦った私は最終兵器、単刀直入作戦を発動した。
「先生。時間がないので、もっと具体的な相談をしてもいいですか?」
「いいよ」
――よし!
意気込んで、大きく息を吸った。
「えっと、仮にクラスメイト同士で付き合っていて、それがその……アレが来ないというような状況になった場合、ど、どうしたら……」
さすがに途中から綾香先生の顔つきが変わる。
「……高橋さんが、じゃないよね?」
慌てて頷くと、先生は少しホッとしたようだが、すぐにまた表情を曇らせた。
「じゃあ、友達の話?」
「あの、えっと、まぁ、その……」
「何日くらい経ってるの?」
「確か5日くらいです」
「そっか」
先生は沈痛な顔で目を閉じ、天井を仰いだ。それから急に私の顔を真正面から見つめるとニッコリと笑って見せる。
「10日」
「え?」
「大丈夫。10日で生理が来るわ。心配することはないと言ってあげて」
「……はい」
このときのことは一生忘れないだろう。
夕陽を背にした綾香先生の言葉はまるで神託のごとく、どこにも疑問を挟む余地はなかった。私は雷に打たれたような感覚だった。しばらく全身はおろか脳の細胞にいたるまで痺れていたのだ。
その言葉を大切に胸にしまいこみ、学校祭の準備に戻る私を綾香先生は優しい眼差しで見送ってくれた。