HAPPY CLOVER 4-学園祭に恋して-
「で、舞ちゃんはなにか用があったんじゃないの? こんな階段の途中にいるくらいだし」
「あ、ああ! 清水くんを探してるの。どこかで見かけませんでしたか?」
英理子さんの表情がようやく和らいだ。
「はるくんならさっき、あの美人教育実習生と3階の廊下を歩いていたけどね」
「3階!」
私と英理子さんは3階と4階の中間にいる。私は階下を覗くように上体を傾けた。
「私も一緒に探してあげる」
英理子さんは言うが早いか、私を急かすように階段を降り始めた。私も引きずられるようにして階段に足を踏み出す。
――綾香先生と一緒……か。
胸の中がざわざわした。
綾香先生が清水くんとふたりきりになったところで、なにも起こりはしない。
そうは思うものの、妙な焦りが体の中を行ったり来たりして落ち着かない。
でも私だって、ついさっきまで偶然、堀内くんとふたりきりになっていたのだから、きっと清水くんだってたまたま綾香先生と一緒になったのだろう。同じ校内にいればよくあることだ。
英理子さんも私も、無言で3階の廊下を進む。
廊下の突き当たりに、机と椅子が重ねて収納された空き教室があった。中から誰かの話し声が聞こえてくる。女性の声だ。
英理子さんが唇に人差し指を立てて、シーとジェスチャーした。私は頷いてゴクリと唾を飲み込んだ。
「私は、進路に関しては自分の道を貫くべきだと思う」
きっぱりとした口調で言い切ったのは、間違いなく綾香先生だ。私は息を潜めて、その凛とした声に耳を澄ます。
「付き合っている人がいると、その人の進路のことも気になっちゃって、気持ちが揺れるのはよくわかるけど、それは結局お互いのためにならないよ」
「先生は女だから、そういう正論を余裕で言えるかもしれないけど、俺は男だし、ぶっちゃけ、なにがお互いのためになって、なにがお互いのためにならないのか、全然わかりません」
清水くんの声がした。いつもとちょっと違う、なんだか切実な響きがあって、私は戸惑う。
フッと綾香先生が笑う気配がして、それからあきれたような声が聞こえてきた。
「正論なんて言う気は、さらさらないの。私はね、……私がそうだったから、『やめたほうがいい』って言いたいわけ」
「先生が……?」
「そうよ。高校時代、付き合っていた男がホントどうしようもないヤツでね。高2のときだったかな? 一度、生理が10日くらい遅れて、あのときはマジでビビッたよ」
「『マジでビビ』るとか言わないでよ。先生にそういう言葉は似合わない」
「あ、ごめん。あのときはものすごく焦りました。……こんな感じ?」
「それで『10日』か」
「ん?」
「いや、なんでもない。それで? 先生はその男のせいで進路を変えたの?」
「変えたわけじゃないけど、県内の大学って制限かけられた。だけど相手は県内でも一番遠い大学に入っちゃって、結局すったもんだの末、別れたよ。もし進路を決定するときに彼氏がいなかったら、違う道を選ぶ可能性もあったかも、と過去をあれこれ後悔することはある」
「可能性……」
「そう。私はその男がたったひとこと『お前、県内の大学にしとけ』って言ったことで、自分の進路をH大にしようって決めちゃったから」
「じゃあ先生はH大に行きたいと思ってなかった……と?」
清水くんの質問の後、少しの間沈黙のときが訪れた。
「そこが曖昧なんだ。私が心の底からH大に進みたいと思っていたかどうか、未だによくわからない。自分の気持ちにじっくり向き合う前に、選択肢を押しつけられたような気がしていて……。H大に進学したことを後悔しているわけじゃないけど、自分の進路を熟慮しなかったことはものすごく後悔している」
大きなため息が聞こえてきた。これはたぶん清水くんのものだ。
「なるほど。……俺も先生の言うとおりだと思います。進路を決めるのは本人にしかできないけど、他人の干渉によって選択肢が狭められるというのはよくわかるから。俺も父親が歯科医なんで、幼い頃から無言のプレッシャーを感じていたし」
「そういえば、そうだったね」
私は急に息苦しくなった。小さな水槽であっぷあっぷしている金魚のような気分だ。魚のクセに溺れている。深呼吸でもして落ち着けばいいだけなのに、みっともないくらい動揺していた。
英理子さんが顔を私に近づけて耳打ちする。
「どうする? 私が通行人のふりして声かけようか?」
「……いえ、あの、邪魔するのも悪いので、このままで……」
「でも、ちょっとあのふたり、怪しくない?」
「えっ……あや、しい?」
「いくら元カノの姉とはいえ、なんだか仲良すぎない?」
「そ、そうですかねぇ……?」
顔の筋肉を引きつらせながら、私は迷った。迷って迷って、どうしようもなくなったそのとき、衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。
「私はね、もう誰とも付き合うことができないんだ」
「えっ!?」
私の心の声と、清水くんの声が同調した。
英理子さんも目を見開いている。
いつの間にそんな話題になったんだろう。英理子さんとの会話に気を取られていて、先生の発言の前後がまったく不明だ。
「『できない』って、高校時代付き合っていたダメ男とは別れたんでしょ? それなら新しい彼氏、探せば?」
「ずいぶん簡単に言ってくれるけど、そんなに簡単じゃないよ。現実は……」
「え? なんかワケアリ?」
クスッと笑う声がした。綾香先生だろう。教室の中を見ることはできないが、聞こえてくる声の距離感から、先生は教壇にいて、清水くんは窓際にいる図が頭の中に浮かんでいる。
続けて綾香先生は「フフフ……」と笑い出した。しばらくおかしくてしようがない、というように笑いを漏らすと、最後に深いため息をついた。
「そのダメ男が、最後にやらかしてくれちゃってさ。……派手に、ね」
「なにを?」
私は意味もなく廊下の中央線を見つめていた。点々と続くその線の向こうには、学園祭準備で忙しく動き回る生徒の姿がある。
だけど私たちのいるここだけ、お祭りから切り離された別世界だった。
「あ、ああ! 清水くんを探してるの。どこかで見かけませんでしたか?」
英理子さんの表情がようやく和らいだ。
「はるくんならさっき、あの美人教育実習生と3階の廊下を歩いていたけどね」
「3階!」
私と英理子さんは3階と4階の中間にいる。私は階下を覗くように上体を傾けた。
「私も一緒に探してあげる」
英理子さんは言うが早いか、私を急かすように階段を降り始めた。私も引きずられるようにして階段に足を踏み出す。
――綾香先生と一緒……か。
胸の中がざわざわした。
綾香先生が清水くんとふたりきりになったところで、なにも起こりはしない。
そうは思うものの、妙な焦りが体の中を行ったり来たりして落ち着かない。
でも私だって、ついさっきまで偶然、堀内くんとふたりきりになっていたのだから、きっと清水くんだってたまたま綾香先生と一緒になったのだろう。同じ校内にいればよくあることだ。
英理子さんも私も、無言で3階の廊下を進む。
廊下の突き当たりに、机と椅子が重ねて収納された空き教室があった。中から誰かの話し声が聞こえてくる。女性の声だ。
英理子さんが唇に人差し指を立てて、シーとジェスチャーした。私は頷いてゴクリと唾を飲み込んだ。
「私は、進路に関しては自分の道を貫くべきだと思う」
きっぱりとした口調で言い切ったのは、間違いなく綾香先生だ。私は息を潜めて、その凛とした声に耳を澄ます。
「付き合っている人がいると、その人の進路のことも気になっちゃって、気持ちが揺れるのはよくわかるけど、それは結局お互いのためにならないよ」
「先生は女だから、そういう正論を余裕で言えるかもしれないけど、俺は男だし、ぶっちゃけ、なにがお互いのためになって、なにがお互いのためにならないのか、全然わかりません」
清水くんの声がした。いつもとちょっと違う、なんだか切実な響きがあって、私は戸惑う。
フッと綾香先生が笑う気配がして、それからあきれたような声が聞こえてきた。
「正論なんて言う気は、さらさらないの。私はね、……私がそうだったから、『やめたほうがいい』って言いたいわけ」
「先生が……?」
「そうよ。高校時代、付き合っていた男がホントどうしようもないヤツでね。高2のときだったかな? 一度、生理が10日くらい遅れて、あのときはマジでビビッたよ」
「『マジでビビ』るとか言わないでよ。先生にそういう言葉は似合わない」
「あ、ごめん。あのときはものすごく焦りました。……こんな感じ?」
「それで『10日』か」
「ん?」
「いや、なんでもない。それで? 先生はその男のせいで進路を変えたの?」
「変えたわけじゃないけど、県内の大学って制限かけられた。だけど相手は県内でも一番遠い大学に入っちゃって、結局すったもんだの末、別れたよ。もし進路を決定するときに彼氏がいなかったら、違う道を選ぶ可能性もあったかも、と過去をあれこれ後悔することはある」
「可能性……」
「そう。私はその男がたったひとこと『お前、県内の大学にしとけ』って言ったことで、自分の進路をH大にしようって決めちゃったから」
「じゃあ先生はH大に行きたいと思ってなかった……と?」
清水くんの質問の後、少しの間沈黙のときが訪れた。
「そこが曖昧なんだ。私が心の底からH大に進みたいと思っていたかどうか、未だによくわからない。自分の気持ちにじっくり向き合う前に、選択肢を押しつけられたような気がしていて……。H大に進学したことを後悔しているわけじゃないけど、自分の進路を熟慮しなかったことはものすごく後悔している」
大きなため息が聞こえてきた。これはたぶん清水くんのものだ。
「なるほど。……俺も先生の言うとおりだと思います。進路を決めるのは本人にしかできないけど、他人の干渉によって選択肢が狭められるというのはよくわかるから。俺も父親が歯科医なんで、幼い頃から無言のプレッシャーを感じていたし」
「そういえば、そうだったね」
私は急に息苦しくなった。小さな水槽であっぷあっぷしている金魚のような気分だ。魚のクセに溺れている。深呼吸でもして落ち着けばいいだけなのに、みっともないくらい動揺していた。
英理子さんが顔を私に近づけて耳打ちする。
「どうする? 私が通行人のふりして声かけようか?」
「……いえ、あの、邪魔するのも悪いので、このままで……」
「でも、ちょっとあのふたり、怪しくない?」
「えっ……あや、しい?」
「いくら元カノの姉とはいえ、なんだか仲良すぎない?」
「そ、そうですかねぇ……?」
顔の筋肉を引きつらせながら、私は迷った。迷って迷って、どうしようもなくなったそのとき、衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。
「私はね、もう誰とも付き合うことができないんだ」
「えっ!?」
私の心の声と、清水くんの声が同調した。
英理子さんも目を見開いている。
いつの間にそんな話題になったんだろう。英理子さんとの会話に気を取られていて、先生の発言の前後がまったく不明だ。
「『できない』って、高校時代付き合っていたダメ男とは別れたんでしょ? それなら新しい彼氏、探せば?」
「ずいぶん簡単に言ってくれるけど、そんなに簡単じゃないよ。現実は……」
「え? なんかワケアリ?」
クスッと笑う声がした。綾香先生だろう。教室の中を見ることはできないが、聞こえてくる声の距離感から、先生は教壇にいて、清水くんは窓際にいる図が頭の中に浮かんでいる。
続けて綾香先生は「フフフ……」と笑い出した。しばらくおかしくてしようがない、というように笑いを漏らすと、最後に深いため息をついた。
「そのダメ男が、最後にやらかしてくれちゃってさ。……派手に、ね」
「なにを?」
私は意味もなく廊下の中央線を見つめていた。点々と続くその線の向こうには、学園祭準備で忙しく動き回る生徒の姿がある。
だけど私たちのいるここだけ、お祭りから切り離された別世界だった。