恋するキミの、愛しい秘めごと
「じゃー帰るか。つーかさ、誰かさんのせいで俺まだ夕飯食ってないんですけど」
ドキドキが治まらず立ち尽くす私の横を、カンちゃんがすり抜け出口に向かう。
「ヒヨ? 行かねーの?」
「あ、ごめん。……今行く」
部屋を出て「与野、まさかの食い逃げなんだけど。これ、経費で落ちんのか?」なんて笑いながら、自腹で高額のお会計を済ませるカンちゃんは、いつも通りの“イトコのカンちゃん”に戻っていた。
「カンちゃん、私が――」
「いや、いいよ。元はと言えば、与野のそういうのを知らなかった俺の責任でもあるし」
「でも、」
「俺様が経理にかけあえば、何とかなるでしょ」
さっきまでの、“男の顔をしたカンちゃん”なんて微塵も感じさせないその様子に、すごくホッとして。
「ほら、ぼさっとしてないで帰るぞ」
「うん。ありがとう……ございます」
「お、南場さんになった」
だから私もいつも通りにしないといけないと思うのに、体に残るカンちゃんの香りと温もりが、どうしてもその邪魔をする。
お店の外に出ても、前を歩くカンちゃんを妙に意識してしまう自分がいて嫌になる。
今から同じ部屋に戻るのに……。
「そ、そう言えば……どうしてこんな時間にいるの? 出張は?」
ループする邪《よこしま》な意識を振り払うように――まるで何かを誤魔化すように口を開き、その背中に声をかけた。
「たまたま一便前の飛行機に乗れそうだったから、それで帰って来てたんだ」
「そうだったんだ」
本当に偶然だった。
もしカンちゃんが福岡で時間を潰して、予定通りの便で帰って来ていたら……。
今更ながらその事実にゾッとして、それからただの会話の流れで、気になっていた事を聞いたんだ。
「だけど、どうしてあそこに来てくれたの?」
「冴子が」
「……え?」
――まさか、彼の口をついて出た“彼女”の名前で、自分の胸がこんなにも冷たくなるとも思わずに。
「冴子が教えてくれたんだ」
「篠塚……さん?」
「あぁ。冴子も昔、あのオッサンと一緒に仕事したことがあったらしくてさ」
「……」
「部下の新人の子が散々セクハラされたって」
「まぁ、その時は冴子があいつをボコボコにしたらしいけど」と付け足して笑うカンちゃんの声はすごく優しい声で、何故か胸がギュッとなる。
「ホワイトボードのヒヨのメッセージ読んで『行った方がいいと思う』って電話よこしたんだよ」
そうか、それでカンちゃんは来てくれたんだ。
篠塚さんに言われて……。
「そっか」
小さく呟いた声は、前を歩くカンちゃんに聞こえただろうか。
「じゃー、明日お礼言わなきゃだね」
カンちゃんが助けてくれなかったら、どうなっていたか分からないのに。
それに優しい篠塚さんを知ることが出来て、嬉しいはずなのに……。
「ヒヨ?」
「ごめん、カンちゃん。私……ちょっと買いたい物あったんだ。先に帰ってて」
「おー。ひとりで平気か?」
「うん、大丈夫!」
篠塚さんの話をするカンちゃんの声はすごく優して、愛しさが込められたその声を聞くのが何故かすごく嫌だった。
助けてくれた人達に、こんな感情を抱くなんて、私はいつからこんなダメな人間になってしまったんだろう。
「何してるんだろ……私」
去って行くカンちゃんの背中に呟いた声は、風に舞って紺色の空に消えていく。
湧き上がる感情は不安定で、何だかよくわからない。
きっとどことなく恋に似たこの気持ちは、ただ単に、兄を取られた妹の気持ちなのだろう。
不安な時に抱きしめられて、心臓がきっと錯覚を起こしているんだ。
「そうじゃなきゃ、私だって……カンちゃんだって困るんだから」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ唇には、まだカンちゃんの指先の温もりが残っている気がして、それを振り払うように頭を振ると、ひとり夜の道を歩き出した。