スーツを着た悪魔【完結】
物心ついた時から父親はいない。おぼろげな記憶があるだけ。
男嫌いなのかと言われたこともあるし、自分でもそう思ったことがある。
ただ、まゆは「今」を「毎日」を生きるのに必死で、恋愛どころではなかったのだ。
そして、自分に恋愛をする資格は必要ないと思っていた。
三年前のファーストキスは深青だった。
二度目のキスも、深青。
ただそれは恋愛じゃない。事故に過ぎない。
豪徳寺深青のように、恵まれた人生を謳歌している人と私は違う。
恋愛は人生に余裕がある人間が楽しむもので、生きるためのものじゃない。
恋をしなくても人は死なない。
けれど、指先で撫でられただけの手の甲はいつまでも熱い。熱が引かない。
この人からは天然のフェロモンが出ているに違いない……。
その熱を振り切るように、手のひらの下の、上等なスーツの生地の触感に意識を集中させる。
これは恋愛じゃない。
あくまで演技で……
そう。恋人のフリだから――このままでいいんだ。