幻の男
☆☆
「仕事が忙しいから」
付き合って一年未満、正確には七ヶ月と十二日の男の言い訳を、最近購入したばかりのiPhone越しに綾子は聞いた。無情にもiPhoneからは悲しげであり、困惑的であり、深奥な、ツー、ツー音が耳奥にこだまする。
彼氏は二歳年上の二十八歳。
が、お互い社会人ということもあり最近はどちらも忙しい。恋愛に割く時間が少なくなったのは、ピュアな心を持つ綾子にとって辛い。
いつもなら「仕事が忙しい」という彼の良い訳に対して、「時間をあけて、必ず。さあ、必ず」と食い下がる綾子だが、今回は聞き分けの良いメイドのように電話を切った。
なぜか?
楽しみがひとつばかし増えたのだ。社会人になり読書の魅力にはまり、簿給かつ一人暮らしのため書籍購入をためらっているので、図書館に通っている。
そこにいるのだ。美形で謎めいた雰囲気の男が。
綾子は、図書館の男にニックネームをつけている。『盲目の男』、と。というのも、司書に一度こうたずねたことがある。「あの男性、いつも遠くを見つめていますよね」
「ああ、あの男性は目ではなく、心で本を読むから」その司書は女性であったが、なぜか綾子に左目でウィンクを放った。
綾子は考える。目ではなく、心で本を読むとはどういうことだろうか。さらに重大な事実が最近になって露呈した。どうやら『盲目の男』は、本当に〝目が見えない〟らしい。
閉館間際の図書館には誰もいなかった。
が、一人だけいた。そう、『盲目の男』、が。綾子は、彼の匂いを嗅ごうと、さりげなく彼がいる『伝記』というコーナーに、ゆっくり芋虫のように向かう。今にも風に靡かれそうな、サラッとした彼の髪の毛が近づく。
その時だった。カチっ。
彼に右手首を掴まれた。
「僕は目が見えない。心で感じることしか」と彼は爽やかな吐息を綾子にふりかけ、「君の視線を感じていた」と澄んだ目で彼女の目を見つめた。
「あっ、えっ、その」と綾子があたふたしていると、彼の筆で描いたような唇が重なった。その唇はとても冷たかった。綾子は力が抜け、それと同時に全身が熱くなった。
数秒が何十時間にも思えるキスの流星が彼女に落ちた。互いの唇が離れ、彼はこう言った。
「ありがとう」
その日を境に綾子は『盲目の男』を見かけなくなった。彼は盲目の男から『幻の男』になり、綾子はまた会える日を信じて図書館に通う。
付き合って一年未満、正確には七ヶ月と十二日の男の言い訳を、最近購入したばかりのiPhone越しに綾子は聞いた。無情にもiPhoneからは悲しげであり、困惑的であり、深奥な、ツー、ツー音が耳奥にこだまする。
彼氏は二歳年上の二十八歳。
が、お互い社会人ということもあり最近はどちらも忙しい。恋愛に割く時間が少なくなったのは、ピュアな心を持つ綾子にとって辛い。
いつもなら「仕事が忙しい」という彼の良い訳に対して、「時間をあけて、必ず。さあ、必ず」と食い下がる綾子だが、今回は聞き分けの良いメイドのように電話を切った。
なぜか?
楽しみがひとつばかし増えたのだ。社会人になり読書の魅力にはまり、簿給かつ一人暮らしのため書籍購入をためらっているので、図書館に通っている。
そこにいるのだ。美形で謎めいた雰囲気の男が。
綾子は、図書館の男にニックネームをつけている。『盲目の男』、と。というのも、司書に一度こうたずねたことがある。「あの男性、いつも遠くを見つめていますよね」
「ああ、あの男性は目ではなく、心で本を読むから」その司書は女性であったが、なぜか綾子に左目でウィンクを放った。
綾子は考える。目ではなく、心で本を読むとはどういうことだろうか。さらに重大な事実が最近になって露呈した。どうやら『盲目の男』は、本当に〝目が見えない〟らしい。
閉館間際の図書館には誰もいなかった。
が、一人だけいた。そう、『盲目の男』、が。綾子は、彼の匂いを嗅ごうと、さりげなく彼がいる『伝記』というコーナーに、ゆっくり芋虫のように向かう。今にも風に靡かれそうな、サラッとした彼の髪の毛が近づく。
その時だった。カチっ。
彼に右手首を掴まれた。
「僕は目が見えない。心で感じることしか」と彼は爽やかな吐息を綾子にふりかけ、「君の視線を感じていた」と澄んだ目で彼女の目を見つめた。
「あっ、えっ、その」と綾子があたふたしていると、彼の筆で描いたような唇が重なった。その唇はとても冷たかった。綾子は力が抜け、それと同時に全身が熱くなった。
数秒が何十時間にも思えるキスの流星が彼女に落ちた。互いの唇が離れ、彼はこう言った。
「ありがとう」
その日を境に綾子は『盲目の男』を見かけなくなった。彼は盲目の男から『幻の男』になり、綾子はまた会える日を信じて図書館に通う。