・*不器用な2人*・

安藤千尋の場合

全然喋らないというせいで昨年は男子1人しか話しかけてくれなかった。

あまり喋れないとはいったものの、今年はやけに友達が増えた。

猿渡さんと話していると、木山君が教室へ入って来た。

彼は私の視線に気付くとすぐ「おはよう、安藤さん」と笑い掛けてくれる。

木山君が学校へ来られるようになって、1ヶ月が経過した。

1年の頃より遙かに明るくなって、彼は戻って来た。

「木山君朝からシャンプーの匂いするんだけど……」
猿渡さんが言うと、木山君は「え」と言いながら自分の前髪を撫でる。

「朝、淳とリビングで取っ組み合いしてたら何故か俺の上に味噌汁が降って来て、朝からシャワー浴びる羽目になったんだよね……。
しかも淳は無傷。何で俺だけって感じだった」

遙かに明るくなって、前よりも優しくなって、そして木山君は少しだけバカになった…というか砕けた。

「味噌汁浴びた経験なんて私全ッ然ないよ」

猿渡さんが驚いたように言うと、木山君はパッと私を振り返る。

「安藤さんは?」

明るく聞かれてしまい、私は内心えー…と思いながらも「ありません」と答えた。

母音が最初に来る言葉はあまりうまく言えないのだけれど、ゆっくりながら答えると、木山君はパッと笑顔になってくれた。




放課後。

日直の仕事を終えて教室へ戻ると、隅の方に木山君がしゃがんでいた。

咄嗟に声を出すことができない私は、彼の前まで歩いて行って、肩をポンポンと叩いた。

木山君は顔を上げずに「安藤さん?」と当ててくれる。

何で分かったのだろう……と思いながら私が答えないでいると、彼は膝に顔を埋めたまま言った。

「なんか貧血」

彼はそう言って、また座り直した。

「最近スポーツ始めたのがいけなかったかな…それか朝ご飯抜いたのがいけなかったかな…」

木山君はボソボソとそんなことを言いながらジッとしていた。

「ぃ……ぃぎぃ……、1年の時、も、たまに…ぁあったもんね」

私が聞き取りにくい言葉を口にしても、木山君は簡単に聞きとって「うん」と答えてくれる。

こんなことしていいのだろうかと思いながら、木山君の髪に手を伸ばす。

去年のクラスで茶髪は彼1人だったから、この髪が何だか物珍しくて、ずっと触ってみたかったのだ。

染めているからきっと傷んでキシキシしているんだろうと勝手に想像していたけれど、私よりも指通りがよくてちょっとだけ悔しくなる。

「何をやっているの安藤さん」

木山君が笑いながら顔を上げた。

その時初めて、木山君の顔を見た気がした。

美形なのに前髪が長いなんてもったいないといつも思っていたけれど、いざ彼の顔すべてを見てみると少しだけ息が詰まる。

色素のない左眼と、正常に機能している右眼は、まるでアニメに出てくるオッドアイのようで、それ以上に生々しかった。

「心配してくれちゃった?」

そう聞かれ、私は慌てて首を横に振る。

「さ、わってみたかった……だけ。ごめん」

そう言うと、木山君は笑いながら「いいよ」と答える。

「左眼、怖いでしょ」

まるで私の頭の中を覗いたかのように彼はストレートに聞いてきた。

私がどう答えて良いのか迷っているうちに、彼はもう1度だけ笑顔を作ると立ち上がる。

「先生たちがさー、髪切れ髪切れってうるさいんだけどね。
でもこんなの見せて歩くのはちょっと如何なものかと俺は思うんだよね」

木山君はそう言うと自分の席から鞄を持って教室から出て行ってしまった。




好きになったのはいつだっただろう。

高1の時に話しかけてくれるのが彼だけだったから、自然と意識していた。

優しいだけじゃない、明るいだけじゃない、ずっと彼が隠していたことに気付いていた。生徒を放出した放課後の校舎で、彼の姿を何度も見かけた。

クラスメートの前では絶対に笑顔を崩したりなんてしない彼だけど、誰もいない時はいつも怖いくらいに無表情で、そうでない時は今にも泣き出しそうな程顔を崩してしまっていた。

よく分からない人……。

そう私が思っていたのに対して、木山君も私のことをよく分からないと思っていたと思う。

何よりずっと不思議だったのは、ごく普通の中学から来た彼がどうして私の言葉を聞き取れるのかということだった。

クラスメートや先生たちが顔を見合せて苦笑してしまう中で、木山君だけは私の言葉をハッキリと聞きとって、少しも気にならないとでもいうかのように返答をしてくれていた。

途中で遮ったりする代わりに、軽く相槌を打ってくれていた。

――私も木山君の言葉を分かるようになりたい。

そう、ずっと思っていた。


自分もそろそろ帰ろうと思い、教室を出た。

下足室へと続く階段を降りて行くと、踊り場の洗面台で木山君の姿が視界に入って来た。

まさかと思ってその肩を掴むと、木山君はギョッとしたように振り返った。

喉に突っ込んでいた人差し指を口から抜き出し、彼は茫然と私を見下ろす。

「えっと……見られてましたか」

そう言われ、私は頷いた。

「もしかして、前から知ってたとかそんな感じ?」

そう言われ、もう1度頷く。

木山君は盛大に捻っていた蛇口を閉めて、私を見下ろす。

「そっか、気付かれてたんだ」

それだけ言うと彼は洗面台の縁に腰を下ろす。

「安藤さん、俺のこと好きでしょ」

からかうように言われてしまい、私は硬直する。

分かってますよーとでも言うかのように笑顔で顔を覗きこまれて返答に困る。

「付き合ったらさ、やっぱりキスとかセックスとかしたい?」

ストレートに聞かれ、慌てて首を横に振る。

「好きでも、そういうことはしたくない!」

気付けば大きな声が出ていた。

「そういう好きではなくて!木山君とそういうことしたいなんて1度も思ったことない!」

私の言葉に木山君はポカンとしていた。

すごく失礼なことを言ってしまった自覚はあるのだけれど、言わずにはいられなかった。

クラスの女子たちがホテルに行ったと自慢しているのを聞くたびに気分が悪くなった。

好きになったらそんなことまでしなくちゃいけないのかと思うとぞっとして、男子に近づくのが怖くなった。

「うん、俺もしたくない」

木山君はやがて小声で言った。

「安藤さんとは、なんか違うなって思った」

慌てて顔を上げると、両手で肩を掴まれた。

キスされると分かり、咄嗟に目を閉じる。

感触があったのは額で、けして唇ではなかった。



目を開けると、木山君が恥ずかしそうに口を拭った。

「家帰ったら早く忘れてね」

木山君はそう言うと鞄を背中に背負って早足に階段を駆け下りて行ってしまった。

今のは一体何だったのだろうと思いながら、私は自分の額に手を当てる。

触れたか触れなかったか分からないほど、彼の感触は無に等しく、けれど確かに額には不思議な感じが残っていた。

思っていたより、不快ではなかった。むしろ嬉しかった。

木山君の降りて行った階段をボーッと見下ろしていて、私は先刻の彼の言葉を思い出す。

――付き合ったらさ……。

彼のあの前置きはひょっとして……。

そう思ったものの、確かめる相手はもう既に校舎の外。

あの出来事が遠まわしな告白だったということに私が気が付くのは、それから何年も後の話だ。

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