愛色と哀色の夜
あの説明のあと、俺は『if』世界で杏(あんず)と共に麗菓達のいる世界へと飛ぶ準備をしていた。
杏が教えてくれた時空の飛び方はふたつ。ひとつは時空の揺らぎを修正するために自分の命を断つこと。そして次に、杏と交わることだった。
前者にはリスクがあり、必ずしも同じ世界に飛べるかどうかは定かではないと説明された。
「…でも、いちばん安全なのは確かね」
命を断つとは言っても、実際に死ぬ訳じゃない。この場合の「命を断つ」は女衒としての記憶を抹消した上でもうひとつの世界に行くことだ。
「ただ、準備をするのに手間がかかるわね。……その、細長い箱を取って頂戴」
杏が指したのは何に使うかわからないぐらい細く、軽そうな木箱だ。俺は言われた通りその箱を取ろうと立ち上がり、木箱に手を掛けた。
「っ…!」
「…嗚呼、落とさないようにね。それはこの世にひとつしかないんだから」
軽そうな外見とは裏腹に鉛のように重いそれは、華奢な杏が持つには無理なように感じる。
「重いでしょう?……それはね、あたし達の祖先である《古谷 璃菜》やあんたの祖先である《遠藤 乃愛》が過去を変えるのに使ったものよ」
木箱をテーブルに置くと杏はなんでもないように包みを解く。その姿に俺は一種の悔しさを感じた。
「ほら、見て御覧なさい。……すごく細いでしょう?…なんで重たく感じたのか、疑問みたいね」
木箱を見詰めたままの俺に、杏は微笑みかける。その笑みは何処か達観したようで何故疑問に感じたことがわかったのかと俺は首を傾げた。
「…術を使えない人間にとって、この剣はただの鉄パイプにしか見えない。あんたは術は使えないけど《遠藤》の人間だからこのレイピアが見えて箱を重く感じたのよ」
杏はひとつ咳をすると、すっと目を細める。そして俺を斬り付けるように体を動かした。
「うぉぅ!?」
剣先が服を掠め、すんでのところで直撃を躱す。杏は剣をテーブルに置くと悪戯のように微笑んだ。
「なんて、こんな簡単に術を発動出来るなら苦労しないわ」
その笑顔は咲いたばかりの花のように可憐で、物憂げな香りがした。