たった一つのお願い
「春ちゃんはね、別に先生と結婚したくなかったわけじゃないんですよ」
「…ウソだ……」
ソレは嘘だ。俺は咄嗟に否定する。
「春ちゃんは自分の命の長さを知っていたから…だから署名しなかったんです。先生を“バツ1”という肩書きにはさせたくなかったんですよ」
俺が怒って病室を出た後、宮ちゃんを呼ぶようあのナースコールの看護師に春陽が頼んだと言う。
宮ちゃんは春陽に自分が亡くなってから1ヶ月後に、それも俺がそれまで春陽を引きずっていたらこれらを渡すよう頼まれたそうだ。
「それに理央なら、すぐ渡しちゃうと死亡時刻とか偽って婚姻届けを役所に出しちゃいそうだしね」と言って笑っていたとか。
そして何度も何度もそれを大切そうに眺めては宮ちゃんに報告していたと言う。
本当は俺だって知っていた。
彼女が余命よりも長く生きる事はない、と。むしろ余命まで生きる事は難しいと。
きっと春陽のお父さんが言った余命は“奇跡が起こって”の事だったのだ。実際に考えられる時間はもっと少ない。
何故ならそれは春陽がまだ高校生だから。
若い人はそれだけ癌の進行が早い。
―――そんな事、分かっていた。
でも、分かりたくはなかった。だから目を逸らして俺は―――…
「春ちゃん、何度も嬉しい嬉しいって言ってたんですよ?」
――――…俺の前ではそんな事、1度も言わなかったのに。