主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-②
もう幽玄町に戻ることはない――

1度戻って雪男や山姫と話してしまえば、決心が揺らいでしまう。

それがいやで、それから数十分後ようやく涙が止まった息吹は蚊の鳴くような声で銀に懇願した。


「もう…幽玄町には行きません。銀さん、このまま父様のお屋敷に…」


「もちろんそうする。晴明ももうお前を幽玄町に行かせるつもりもないだろうからな。…腹の中の子はどうする?百鬼夜行の…」


「後継ぎなんかにはさせません。この子には父様のように人の世界で生きてもらいたい。主さまのことだから…私のことを忘れたら赤ちゃんなんてすぐできるだろうし、主さまを欲しがってる女の人も沢山居ると思うから」


「そうか?……まあ、お前がそう言うなら別にいいか。着いたぞ、熱い湯に入って来い」


身体から力が抜けて立ち上がれない息吹を抱き上げて牛車から下ろした銀は、門戸を開けて庭を横切ると、待ってい式神の童女に息吹を預けて手で肩を揉みながら縁側に腰を下ろす。


…息吹に離縁を言い渡された時の主さまのあの表情。

完全に面喰った様子で言葉を詰まらせていたが、主さまからは恐ろしいまでの血臭がしていた。

恐らく晴明はそれが理由で主さまをどうにかしようと思ったのだろうが…あのたおやかそうな女をどうするつもりなのか。


「頭が痛い問題だな。ああ、若葉を迎えに行かなければ」


銀にとっては幽玄町まではひとっ飛びだ。

息吹が風呂から上がってくるまでの間に戻って来れる自信があったので、立ち上がるととんと助走を付けて空を駆けると、あっという間に幽玄町の主さまの屋敷に着いた。


「若葉、若葉はどこに居る?ああ居たな。そら、こっちに来い」


大広間をちょこちょこ歩いていた若葉が銀に抱っこされた時、山姫と雪男が揃って飛び出してくる。

屋敷を後にする息吹の様子からして何かを感じ取っていた2人は、身を固くして銀に問うた。


「銀!息吹は…主さまは…!?」


「…息吹はもうここに戻って来ない。十六夜に離縁を申し渡して晴明の屋敷に戻った」


「え…!?一体どういうことなんだい!?晴明は…」


「わからない。だが十六夜は納得していないようだったが、あいつの傍には見知らぬ女が居た。…離縁はそれが原因だ」


山姫と雪男が離縁を言い渡された時の主さまと同じ顔をした。

銀はそれ以上語らず、若葉を抱いて幽玄町を発つ。


主さまから血臭が取れるまで、戻らないつもりで居た。
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