死神の黒【水没】
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しゃんしゃん、しゃららん、しゃららん、しゃんしゃん。
まるで鈴のような音を森中に響かせながら、一人の僧侶姿が険しい獣道を歩いている。
黒い袈裟と足袋に草履、左手には菩提樹の数珠をぶら下げ右手には黒檀で造った自身の背丈をも越す大きな錫杖を杖代わりにして、鹿と変わらぬ身軽さで坂道を降りていった。
整然とした森は、どこからか迷いこんだそよ風が木々とともに教を唱え、見上げれば背の高い葉が空を覆い、昼だというのにどこもかしこも薄暗い。
こんな森に用があるのは、せいぜい獣を狩りにきた猟師くらいであろうか。
少なくとも小枝や葉が落ち乱れ、ぬかるんだ土は袈裟などで歩くものではない。
では彼は一体この森にどんな用があるのだろうか。
いや、格好は違えど、鉄砲は持たずとも、彼の用事は猟師とほぼ同じである。
鉄砲の代わりは杖と数珠。
獲物を探している猟師の目ほどに編み笠の下から覗く黒い両目はぎらぎらと光っていた。
僧侶とは思えぬほどの貪欲さを隠そうともせず、時おりじゃら、じゃら、と数珠を揉む指は舌なめずりの代わりであろう。
ああ、おそろしや 獣の子。
ああ、おそろしや 居明かして。
居明かしてまでもかの僧侶風情は、これから死のうとする女の命を我が手に掛けんとして勇んで行くなり。
おそろしや、おそろしや。
そんな噂話でもしているのだろうか、四六時中森のなかを這いずり回っているはずの狼や狐や狸等々本来の獣たちは、彼をおそれてか近付こうとはしなかった。
彼の視界には未だ死んだような木々意外に生き物は映っていない。
避けるかのようだ。
避けているかのようだ。
やがて僧侶姿は森の奥深くにまで足を伸ばした。
森の中心には湖があり、昨晩の雨にも関わらず綺麗に澄んで水底の土を透かしている。
風もここまでは降りてはこない様子で、耳鳴りがするほどの静寂に包まれているのに、湖の水面は波を打っていた。
水際からそっと視線を走らせると、湖の中央に白い人の姿がぽつり、浮かんでいた。
見えない空を仰ぎ、四肢を晒す白いワンピースを身に付けた長い髪の女が水面に浮かんでいる。
こちらに横顔を向けた顔は人形のように整っており、まるで白百合のようだ、と彼は思った。
僧侶姿は一歩足を踏み出す。
一歩目は失敗して水に浮かぶものの、二歩目からは硝子の上を歩くかのようにひたひたと水面に足を這わせ、探し求めた獲物との出逢いに歓喜しながら近付いた。
しゃららん、しゃららん。
錫杖の先端に通された幾つもの黒い輪が、重々しく鳴っている。
彼は女の傍らに立ち、その顔を見下ろした。
やはり美しい女だ。
まともに生きていれば息をするのも忘れるくらい、きっとそれほどの美貌であったろう。
元から白いであろう素肌は、すでに体温を無くしかけて蒼白い。
乾いた紫の唇も、硬く結ばれて今や能面のようにどんな表情も見せやしなかった。
彼は左手をそっと女の額に置いた。
くん、と押された頭蓋が少しだけ水面を押し、再び同心円状の輪が湖に広がっていく。
彼の薄い唇が弧をかいた。
ふと、女が瞼を上げる。
「おや、起きてしまわれましたか」
女は鳶色の瞳を思いきり張る。
先程まではただ蒼白くなった若い女の顔だったのに、目を開けたのが合図とでもなったのか、みるみるうちに頬がこけ、目の回りが落ち込んでくる。
体がわずかに水面に沈んだ。
皺も増える。
女は落ちてしまいそうな眼球の中の鳶色をわなわなと震わせ、整った目の前の男の顔を凝視する。
「それは、絶望ですか、それとも喜びですか」
女は答えない。
否、もはや声帯が震えず機能しないのだ。
皮肉なことに、周り一面が水だというのに彼女は一滴も喉を潤してはいなかった。
このまま二度と目覚めないはずだったからだ。
では、彼女に表れた表情の意味はなんだろうか。
死ぬ前に誰かに看取ってもらえる幸せを喜んでいるのか、はたまた死に際を人に見られた恥か。
おそらく後者であろう。
綺麗な女は綺麗な場所で死にたがるらしく、湖に身を沈めたのは海に身を投げるのとおそらく同じことをしたのであろう。
――くだらない、死して果てては皆醜いというのに。
水を吸って膨らんだ遺体がどれだけ酷い有り様になるのか、それを誰が拐い、誰が啄み、何者の命に代わるというのを解っていない。
いっそ火となり灰となり空へ召された方がよっぽど美しかろう。
彼は水への誤解を抱いたままの女を蔑み、より深く笑みを刻んだ。
皺が増える女の顔。
まるで烙印が刻まれているようだ。
そしてゆっくり、ゆっくり水面から落ちて腹、足、胸、肩と浸かっていく。
長い髪は根を張るようにしぶとく、少しでも綺麗を保とうとでもしているのかなかなか水には沈まなかったが、段々と重い身体に引きずられていく。
やがて女の鼻先までもが水に飲まれ、流れのない湖の底から見えざる腕が彼女を抱き締め引きずりこんでいく。
それを見ているのがどうにも楽しかった。
清々する気がして、彼はやがて声を出して女を嘲笑った。
「おい、笑ってないで仕事しろよ」
ふと水際から声がする。
慌てて振り返ると、赤髪の青年が草に埋もれて座りながら退屈そうに彼を眺めていた。
いつからいたのだろう、なんて疑問は飲み込んで、彼は苦笑を浮かべてすみませんと謝罪を述べる。
「どうにも可笑しくて、つい」
「いいから早くとっちまえよ、焦れったい」
「失礼しました。
ですが本当に傑作ですよ、8章さまも此方へ来てみては、まだ見えます」
「水は嫌だ。
それより見えてるなら早く取れって」
いつまでも遊んでないで、と青年は急かす。
はいはい、と答えて彼は錫杖を水の中に差した。
女の胸の真ん中に錫杖の先をあてがうと、なにかを掬い取るような動きで水面からそれを持ち上げる。
「あっ、取れました、取れました!」
「嬉しそうだな…」
「ええ、なんとなく」
錫杖には黒い輪っかが引っ掛かっている。
それを取り上げて指でくるくる回しながら、彼は足早に8章のところへ戻ってきた。
「見てください、私これでついに一万個突破です」
「まだ、だろ。
お前は上手いのに、真面目にやらないなんてもったいない」
「真面目に…やっているつもりなんですよ。
8章さまの数には勝てませんけれど、ね」
6章はいたずらっぽく笑う。
普段大人しく、冷静な彼がこんな風にはしゃぐのは珍しかった。
そんなに面白かったのだろうか、ただの女の水死体が。
そう口にしてみると、6章は真面目に唸りながら考え、そういえばどうして面白がるのかさっぱりわからないだなんて笑った。
「どうしてでしょうって…」
「よくわからないんですが、なんというか、朽ち行く物を見ているとついつい見とれてしまうんですよ」
「悪趣味だな」
「そうですか?
苔が生えた石や家の軋む柱ってなんかいいなって、8章さまも仰っていたではありませんか」
「それと人の遺体を一緒にするのは…どうかと思うが」
「変わりません、ええ、変わりません。
あんな風に人は死んでしまうし、花は枯れてしまうし木は腐るものなんですよ」
6章の錫杖が水面を引っ掻いている。
水際まで来て、ふと湖の中心を振り返ると、6章の足跡が残っているかのように、水面は波打っていた。
しかしそれもいずれは消える。
6章は錫杖で水面を叩いた。
「朽ちるものは美しいです」
「朽ちないものでも綺麗なものは綺麗だ」
8章は水面にそっと指を走らせた。
水遊びのつもりか、じゃぶじゃぶと水を掴んでは放し、袖を濡らす。
「そうですね…」
しかしそれは愚かというものさ。
この世に時間という愛すべき掟が有る限り、世界は廻るし物は変わる。
それを押し止めようとするなんて。
いつまでもあり大抵に綺麗ではいられないがそれでも変わることそのものが美しい。
だが。
「なかなか解っていただけない理論ですよねぇ…」
はあ、と溜め息ひとつ。
黒い輪っかを錫杖の先端に引っかけて、6章はその鳴りの重さを確かめた。
また一つ重くなる。
変わり果てた人の命の成れの果て。
「なんだよ、解って欲しいならいくらでも聞いてやるぜ」
「いえ、いいんです。
理解不能な趣向というのも、また魅力的ですよね」
「わからない奴」
「ええ、行きましょう」
二人は水を離れ、森の坂道を上る。
重くなった錫杖の輪が、歌うようにしゃららんしゃららんと鳴っていた。