ボレロ - 第一楽章 -
「ひろさん、忘れ物でした? あっ……ごめんなさい」
珠貴の手が離れ、はにかんだ笑顔が消えた。
「お客さまでしたのね。宗、こちらの方、私にも紹介してくださらない」
「失礼いたしました。
私、こちらで宝飾部門を担当しております、須藤と申します。
本日は近衛さまへお届けの品がございまして、こうして伺いました」
一瞬にして仕事の顔になり、バッグから名刺を取り出し静夏に渡しながら、
当社オリジナルのブランドもございます、とよどみない言葉が珠貴の口から
こぼれ出ていた。
「SUDOの方ですの……須藤 珠貴さん……ステキなお名前ですね」
静夏がチラッと私を見て、口元をほんの少し緩ませた。
「では、私はこれで失礼いたします」
目を伏せるように礼をすると、珠貴はバッグを抱え急ぎ玄関をあとにした。
待ってくれと声をかける暇もなかった。
「追いかけなくてもいいの? 彼女、私のこと誤解してるわよ」
「わかってる……」
「わかってるならどうして! まだ間に合うわ。追いかけて説明してあげて」
「下にタクシーを待たせているそうだ。先を急いでいるらしい。
それに、今さら追いかけてなんて言うんだ。
アイツは妹だ、信じてくれとでも言うのか。それこそ信じてもらえないさ」
「彼女でしょう? 宗が私と間違えた人……悪いことしちゃった。
私のせいね」
「悪いと思うなら、今夜お袋たちの前で余計なことは言うな。わかったな」
「はいはい、わかりました」
不満そうに静夏は返事をしたが、それでもバツが悪かったようで部屋の
片付けをはじめた。
今夜は、兄弟が集まって母親の誕生日を祝う会を開くことになっていた。
これまでの誕生会は、会の最後に少しだけ顔を出す程度だったが、
今年は静夏が帰国したこともあり、また大叔母も出席するから、必ず顔を
出してほしいと紫子から言われていた。
「SUDOって繊維関係の会社ね。
お名前が須藤さんということは、一族の方かしら?
珠貴さん、理美さんと全然違うタイプね。どなたかのご紹介なの?
それとも……」
「それ以上聞くな!」
「おぉ、怖い」
静夏はおおげさに肩をすくめると 「先に車で待ってるわ」 と言い残し、
逃げるように玄関を出て行った。
ふぅ……っと、大きなため息がでた。
静夏にはあのように言ったが、珠貴へなんと説明したものか。
出張前であるのに、わざわざマンションまで来てくれた。
会いたかったと嬉しい言葉も伝えてくれた。
それなのに、彼女の気持ちに応えることもできず、母の誕生日のプレゼントを
選んでもらった礼も伝えられなかった。
礼を言う口実に電話をしようと携帯を取り出したが、タクシーの中に一人とは
限らない。
誰かが一緒であれば返事にも困るだろうと思い、電話を思いとどまった。