ボレロ - 第一楽章 -
「煙草、いいかな……」
「私も、もらってもいい?」
紫煙を目で追いながら彼女は何を考えているのだろう。
後悔だろうか、それとも……
「気持ちのままに飛び込んでいけばいいと思いながら……ずっと迷っていたの」
「俺も同じだ。自分にブレーキを掛けることばかり考えていた」
「でも、どうしたらいいの? って、やっぱり考えているわ」
まだ充分に残っている煙草の先を消し、珠貴が私にもたれてきた。
彼女の肩を抱き、汗の滲んだ肌をさすった。
「このままでいいんじゃないかな」
「このままって、今のまま?」
「いつか決断しなければならない時がきたら、そのとき考えよう。それまでは」
「このままで……」
「……身勝手だろうか」
「いいえ……」
私の胸に顔を埋めてきた珠貴を両手で抱え込んだ。
伝わる鼓動は穏やかに整っていた。
安心してすべてを預けられた心地良さを感じた。
「さっきみたいに呼んでもらえないかな」
「さっきって……あっ……いいの?」
「いいよ」
顔をあげ確認するように私を見つめていたが、小さく口が開き、宗……と、
消え入るような声が耳に届いた。
俯きかけた顔をとらえ深く唇を合わせると、鎮まりかけた体内の熱がふたたび
広がってきた。
私と珠貴の蜜月は始まったばかりだった。
朝から夏の太陽が照り付けていた。
都会のビルに反射して、鋭い光があらゆる方向に飛んでいる。
人が進む方向もひとつではないのだろう。
本来いくつもあるのに、それに気がつかずこれしかないと思い込んでしまう。
だから厄介なのかもしれない。
オフィスから見える風景を眺めながら、こんなことを考える自分が
可笑しかった。
「森脇が買収に失敗したようですね」
「驕りがあったのさ」
「内部の反感もすごかったそうです。
会社に風穴を開けたかったと、社長のコメントがでていましたが……」
「何が風穴だ。自分のところが株主になれば、なにもかも思い通りに行くと
思っていたんだろう。
会社はゲームの駒じゃない、人が動かすものだ」
「今朝は雄弁ですね。何かありましたか」
平岡の鋭い問いに 「まぁな」 と曖昧な返事をした。
「ほら、それですよ。いつもなら睨みつけるか不機嫌そうな顔をするのに、
今朝の先輩はやっぱり変ですね」
「なんだ? じゃぁ、いつもは俺に不機嫌な顔をさせたくて、
わざと嫌味なことを言っていたのか。
食えないヤツだな」
「そうじゃありませんが、なんだか調子が狂いますね」
ははっと笑うと、そんな笑い方は先輩らしくありませんねと不満げだった。
「昼の席を4人分予約しておいてくれ。ゆっくりできるところがいい」
「わかりました。それにしても急ですね。何か急ぐ会議でもありましたか?」
「いや、お袋が頼んだ品を持ってきてくれるそうだ。
蒔絵さんにはずいぶん無理を言ったらしい。その礼も兼ねてと思ってね」
平岡の顔が驚きを見せたあと、したり顔になった。
「珠貴さんも来るってことですね。
なるほどね……機嫌のいいわけがわかりました」
「わけはなんだっていい、頼んだぞ」
ほら、やっぱり今日の先輩は違いますよとまだ言い続けた。
”いつか決断しなければならない時がきたら そのとき考えよう”
珠貴に伝えた言葉を思い出していた。
いつか……
本当にそんな日がきたら、どう決断するのだろう。
先の見えない道を歩き出した気分だったが、道を歩くのは一人ではないと
思うと不思議と不安はなかった。
「予約ができました」 と、平岡の弾んだ声が聞こえてきた。
今日はどんな顔を見せてくれるのだろうか。
珠貴の颯爽とした姿を思い浮かべながら、朝の仕事に取り掛かった。