ボレロ - 第一楽章 -
もうすぐ留学先に戻るので、その前に会えないだろうかと静夏ちゃんから
連絡があり、ゆっくり話ができるところをとの彼女の要望で割烹に席を
用意した。
昼の割烹の多くは女性客で、廊下の先から賑やかな声が聞こえていた。
賑やかな席を通り過ぎ、女将が私たちを案内したのは、中庭に伸びた
渡り廊下の先にある離れの一室だった。
「趣のあるお部屋ですね」
「お気に召されましたか。よろしゅうございました」
「こんな奥に離れがあるなんて、何度も伺っているのに初めて知りました」
「こちらはではあらゆる密談が交わされたようですよ。
歴代の大臣の方々ですとか……」
ほどなく女将の代わりに姿を見せた大女将は、部屋の説明をしたあと声を
さらにひそめ、私たちと頭を寄せ合いある政治家の名前を口にした。
「内緒ですよ。お嬢さま方」 と口角を上げた顔が私たちを交互に見て、
ふふっとひそやかに笑った。
「由緒あるお部屋ですのね。
でも、私たちが使わせていただいてもよろしいんですの?」
「えぇ、もちろんです。
お二人のお話は、他言できない内密のお話だと伺っておりますので……」
大女将志野さんの、さらに声をひそめながらの茶目っ気のある顔が見え、
私も静夏ちゃんもそこで笑い出してしまった。
いつもなら、ゆっくりと出される料理の数々をあらかじめ並べ終え、
お帰りの際にお声をおかけくださいませと告げると、志野さんは優雅な
礼をしたのち部屋を立ち去った。
「大女将さん、素敵な方ですね。
背筋がすっと伸びて、同じ女性として憧れます」
「私もね、志野さんにお会いしたくて時々伺うの。
静夏ちゃんをご案内できて良かったわ」
本当に素敵な方ですと、またくり返す彼女の口はなかなか本題に入らず、
こちらにいる間に懇意になった画廊に作品を置くことになり、向こうに
帰ったら自分の作品を仕上げなければ、と言ったような話が続いていた。
今日はゆっくり時間を設けていることもあり、彼女が話したくなるまで
待ってみようと、急かすことなく聞き役に徹していたが、話は思いがけない
方向へと流れていった。
「知弘さんとは、狩野さんのホテルのバーでご一緒してから、
何度かお会いする機会をいただきました」
「叔父と……そうだったの」
彼女の口から ”知弘さん” と発せられると、私の胸の奥が小刻みに
揺れてくるのだった。
これまで叔父が女性を連れている場面に遭遇しても、連れの女性にはなんら
感じることはなかったのに、静夏ちゃんが叔父の名前を呼ぶたびに、
小さな嫉妬を含んだ感情が沸き起こるのだった。
「私、行かなければならない場所があったんです。
でもなかなか踏ん切りがつかなくて、迷っていると知弘さんにお話したら、
一緒に行こうとおっしゃってくださって……」
「知弘叔父が一緒でも良かったの?」
「もちろんです。一人では入りにくい所ですから。
知弘さんの大学の同級生がいらっしゃるそうで、
彼を訪ねて行けば入りやすいからと連絡を取ってくださいました……
警視庁に行ったんですよ」
「警視庁って、静夏ちゃん、いったい何があったの」
行き先が思いもしない場所だったため、私はいらぬ想像をしながら彼女の
返事を待った。
「ある人からの預かり物を渡すために、会わなくてはならない人がいて、
でも勇気がなくて……会うのが怖かった」
「もう少し詳しくお聞きしてもいい?」
深く頷くと静夏ちゃんは箸を置き、座卓の上に手を乗せ指を組んだ。
長くなりますけどいいですか、と断りを言ってから話を始めた。
それは、彼女が外国暮らしを始めたきっかけに繋がったことでもあり、
辛い恋の結末の話だった。