ボレロ - 第一楽章 -
『……すみません。30分ほど遅れます……いえ、出掛けに仕事のトラブルがありまして……
はい、ではのちほど』
「お仕事でしたのよね 私のせいでご迷惑をおかけしました」
私の電話から事情を察したのか、素直に頭を下げる姿に先ほどの勇ましさは微塵もなく、新たな一面も見ることができたと嬉しくなった。
「今日は君と同じような用事でね」
「同じって……女の方と待ち合わせ? まぁ、本当にごめんなさい」
「いや、それはかまわないんだ……それより、宗さんってのはちょっとなぁ」
「……宗一郎さんとお呼びしようと思ったのだけど、彼にあなたの名前を聞かれたくなかったので、とっさに」
「聞かれたくなかったって? どうして」
「私に関わったばかりに、あなたに迷惑がかかってしまうかもしれませんから」
珠貴が呼んだ名前から、あの男が私の素性を知るのを避けたということ。
珠貴が大胆な女性であることはこの前の出会いでも感じたが、細かい配慮もできる人だとわかり、ますます彼女への興味が募った。
「宗でいいよ。宗さんと呼ばれると、お袋から呼ばれているようで身がすくむ」
「身がすくむの? お母さまが怖いなんて……とても素敵な方なのに」
「母親ってのは、息子にとってはいつまでも怖い存在でね」
「あなたにも怖い方がいらっしゃるのね……でも呼び捨てにするのは、やはり失礼だわ」
「いいさ」
「本当に?」
「あぁ」
珠貴はしばらく考える顔をしていたが何か決めたのか、溌剌とした笑みを見せた。
「それでは、私も名前で呼んでください。あなたに名前を呼ばれて、気持ちがよかったもの」
「わかった。君がまた好きでもない夫候補に付きまとわれたら呼んでくれ。
いつでも行くよ」
「まぁ、ありがとうございます。頼もしい同志に出会った気分だわ」
「同志? 我々が?」
「えぇ、お互い家を背負っているんですもの。結婚相手すら自分で決められないのよ。
同じ立場でしょう」
私が彼女の素性を調べたように、彼女も私を調べたのだろう。
互いに後継者であること、自分の意思で自由にパートナーを選べないこと。
おそらく、互いに現在は特定の相手がいないことも含めて。
「言われてみればそうだな。同志か、なるほどね。君は面白い発想をするんだな」
「あなたもね。私のことを、すぐにわかってくれた人は、そうそういないのよ」
「そうそうって、それは洒落?」
「いやだ、違います」
くだらない洒落を言ったものだと自分でも呆れたが、珠貴との言葉の掛け合いは、とても気持ちのいいものだった。
ビル街の周りをぐるりと一周してホテルに戻り、彼女を送ってくれと運転手に頼んだ。
「この前のサカキの件は助かった。今度、礼をするよ」
「お礼なんて、紫子さんに繋がりのある方ですもの。お役に立てて良かったわ。
それに、今日助けていただきました」
「いや、これくらいでは釣り合わない。こっちは会社の損失を免れた。
その礼はさせてもらえないかな」
「……わかりました、楽しみにしていますね。では、今日はお言葉に甘えてこのまま失礼します」
「送っていけなくて申し訳ない。近いうちに連絡するよ」
車を降り、ドアが閉まる前に彼女に手を上げ別れの挨拶をした。
ドアを閉めようとしたときだった。
「やっぱり呼び捨てにはできません。宗一郎さんと呼ばせていただきますね。
では……」
彼女の律儀さと自分の意思で決めていく姿が、より印象的な別れだった。
珠貴に名前を呼ばれて一瞬のときめきを感じる自分に気がついた頃、彼女の存在はより大きなものになっていた。