ボレロ - 第一楽章 -
些細なことが原因である事が多いのだが、私と珠貴の間ではたびたび意見の
相違が起こる。
そんな時の彼女は、可愛げもなく自分の意見を堂々と述べ、私の自尊心を
刺激する。
討論になり、どちらも引かない場合は私が口をつぐむことになる。
”宗って、都合が悪くなると黙り込むのね”
彼女はこう言うが、それ以上討論を続けては、私たちの間にひびが入ると
わかっているから口を閉ざすのだが、珠貴はそんな私の態度が許せない
らしい。
二週間ほど前もそうだった。
珠貴が立ち上げた宝飾ブランドの取引先の一人が、私の持つデータでは業績が
芳しくないとわかり、取引を控えたらどうだろうと忠告したことが発端だった。
取引といっても実際には社長夫人個人の購入であり、会社の損益とは関係の
ないことではあったが、元をたどれば会社役員にも名を連ねる夫人の資産に
なるため、関係なくもないと言えよう。
ところが……
女性は美しいものを求めるもの。
会社の業績が悪くなったからといって、すぐにどうなるものでもない。
それに、あの方の支払い関係は滞ったことがないのだから心配ないと、珠貴は
私の忠告をはねのけた。
「これまでの信用がありますから、ご心配なく」
「この先業績が傾けば、その支払いだって怪しくなるじゃないか」
「個人購入ですから会社とは関係ないはずよ。
私は奥様のお人柄を信用して、取引をさせていただいていますから」
「だから、母体が傾けば、そうも言ってられなくなるってことじゃないか」
話し合いは平行線で、気まずいまま別れて以来、連絡も途絶えたままだった。
私はそのままヨーロッパへ出張で出かけることになったため、珠貴に出張の
予定は話していない。
しばらく時間をおけば互いの気持ちも落ち着くだろう。
この出張が、二人にとってほどよい冷却期間になるはずだと思いながら、
会えない寂しさを抱えているのも事実だった。
優秀な秘書は、出張の最後の二日間を休暇にあてるようスケジュールを
組んでいた。
二日間といっても、最終日は移動日のため夕方には空港に着かなければ
ならないが、正味一日半のプライベートタイムが確保されていた。
「平岡、おまえは優秀な秘書だよ。予定に狂いもなく休暇まで確保してくれた。
だがなぁ、なんでオペラ見物が入ってるんだ?」
「文句を言わないでくださいよ。相手方の好意なんですから。
ローマのスカラ座でオペラ鑑賞ですよ。最高の接待じゃないですか」
「ここはプラテア席じゃないか、舞台から丸見えだ。
こんな見晴らしのいい席じゃ寝るわけにもいかないだろう。
ガレリアに変えてもらえ」
「先輩よく知ってますね。プラテア席っていうんですか。
それで、ガレリアってどこですか?」
座席の知識は珠貴の受け売りだった。
イタリアに住んだことのある彼女は、折に触れイタリア時代のことを話して
くれる。
オペラが好きで劇場に通ったこと。
1階の良い席をプラテア席といい舞台がくまなく見えるが、通い詰めるには
チケット代が高いこと。
自分はもっぱら天井近くのガレリア席で、服装も気負わず通えたことなど、
懐かしそうに話していたのを思い出していた。