ボレロ - 第一楽章 -


ここは良い席だとしきりに言うので、私は後ろ奥のガラテアの方が気楽だと

言うと、



「あそこは気楽だけどオペラ通が陣取る場所なのよ。

やじやブーイングもすごいの。初めて観るならここは最適だわ」



席にあわせてお洒落してきたのよと、やっと女性らしい発言がでてきた。

ドレスコードは正装だと言われるが、タキシードほど気張らなくてもいいとの

ことで、男はジャケットとネクタイで充分だと聞いていた。

女性は席によって服装も微妙に違うのか、後ろの席はカジュアルな服装が

目に付くが、この近くに座っている女性達のほとんどがワンピースだった。

珠貴も例にもれず、肩の開いたワンピースに薄いショールを羽織っていた。



舞台が始まり眠気に襲われるのではと心配したが、事前に聞いたあらすじが

頭に入っていたこともあり、何より生の舞台の迫力に圧倒された。

ときどき珠貴から小声で説明があり、間近に寄せられる彼女の顔を意識

しながら、長い舞台を飽きることなく見ることができたのは幸いと言えよう。

目頭を押さえる彼女に気がついたのは舞台の終盤で、ハンカチが手放せない

様子だった。



「何度も観てるのに、同じところで悲しくなるの」



感受性の豊かな女性だと思っていたが、こんな姿を見せられると男として

かまいたくなるものだ。

珠貴の手を取り指を絡ませ握り締めると、彼女も握り返してきた。

私の肩に頭を預け涙を隠すように拭う仕草など、たまに見せるこんな姿は

可愛いと思えるが、そう思ったのもつかの間、目頭を拭うと、さっと表情を

戻しツンと顔を上げて舞台に目を戻した。

彼女の肩に回しかけた私の手は、所在なげに空を掴むことになった。


舞台がはねたあと軽く食事をとり、ホテルに戻るためにタクシーを止めた。

珠貴の背を押して先に乗るように言うと、私とはホテルが反対方向だという。



「おそらく、君の荷物はこっちのホテルに移っていると思うよ。

平岡ならそれくらいやりかねない」


「まさかそこまで……でも、ありえるわね……」



今朝方、部屋を移ることになったので荷物をまとめておいてくださいと、

蒔絵さんから言われたのだという。

今日のことは、こちらに出張に来る前から平岡と蒔絵さんで綿密に計画したの

だろう。 

私と珠貴は顔を見合わせて、あきらめの笑いがでてきた。

予想したとおり彼女の荷物は私のホテルに運ばれており、彼らの心遣いか、

または罪滅ぼしなのか、ワンランク上の部屋に変更されていた。



珠貴は室内の様子が気に入ったのか、先ほどまでの澄ました顔は消え、

クローゼットや浴室などくまなく見て歩き、ワークエリアも充実しているわ、

バルコニーからバチカンもみえるそうよ、などと感嘆の声をあげている。



「キングサイズのベッドなのね。寝返りしてもあなたにたどりつけないわ。

ケンカしている私たちにぴったりね」


「いつ俺たちがケンカしたんだ?」


「えっ、そうじゃなかったの? 腹を立てていたのは私だけってこと」


「あれは意見の相違だ。せっかくいい部屋になったんだ。

離れて寝るなんて願い下げだね。

あっちはあっちで、よろしくやってるはずだ」 


「よろしくやってるなんて、宗ったら、もぉ」



睨みつけた顔も素直でない返事も、今夜の私には珠貴のすべてが魅力的

だった。

小さく膨らんだ頬を突くとふっと笑みが漏れ、彼女の笑顔が私たちの

わだかまりを解く合図になった。




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