ボレロ - 第一楽章 -
「珠貴」
待ちわびた声がした。
名前を呼ばれただけで体がほどよく緊張し、体温が上昇してきた。
振り向くとエレベーター前に立った彼が、こちらへと手招きをしている。
「待たせたね。なかなか会長の話が終わらなくて、
年寄りの話はどうしてあぁくどいんだろう」
「でも、ちゃんと話を聞いてらしたんでしょう。偉いわ」
私のやや皮肉をこめた返事に、彼は偉くなんかないよと仏頂面で言い放ち、
手が上の階へのボタンを押した。
「忘れ物でも?」
「いや、腹ごしらえさ」
「えっ? でも、この上にあるのは……」
「そこに行こうと思ってね」
「これから? 無理だわ」
こんなやり取りをしている間にエレベーターのドアが開き、
私は押し込まれるように中へと進んだ。
ホテルの最上階にあるレストランは、誰もが入れる場所ではなかった。
会員制になっており、その数に変動はなく、誰かが権利を譲らなければ
新規の会員にはなれないという格式のあるレストランで、私の家のように
戦後のしあがった後発組にとっては、欲しくても手に入らないものの
ひとつだった。
完全予約制で、会員といえども予約なしでは食事ができないと聞いていた。
「予約はした。あいているそうだ」
「すごいわ。みなさん、ひと月も前から予約なさるとおっしゃるのに」
「普通はね。だが、今夜はキャンセルがでるから大丈夫だろうと思ってた」
「どうしてわかるんです?」
二人しか乗っていないエレベーターだというのに、彼は少し声のトーンを
落として話し出した。
「木戸の社長夫人が亡くなった。俺も、ついさっき聞いたばかりだけだが」
「そうですか……長く入院されているとお聞きしてたけれど、
お気の毒なこと……あっ、だからキャンセルがでると」
「さすがに勘がいいね。葬儀は明後日だそうだが、
とりあえず、みな通夜には顔を出すだろう。
だが……人の不幸に便乗して食事をするってのが嫌なら他へ行くが……」
「いいえ、これもチャンスですもの。宗一郎さんにお付き合いします。
木戸の奥様には申し訳ないけれど。でも、こんな格好で大丈夫かしら」
「申し分ないよ。君の服が一番あの場にふさわしかった。
孔雀のような連中の中ですぐに見つけた。まったく誰の祝いなんだか」
「まぁ、宗一郎さんったら、孔雀って……ふふっ」
上目遣いに彼を見ると、口元がニヤリと緩んで、いたずらな目が
私を見ていた。