ボレロ - 第一楽章 -
「こちらが場を設ける場合は、あらかじめノンアルコールの物をと
指示しておく。相手が指定した場所であれば、そこの担当者を抱きこんで
ノンアルコール飲料を用意させる。
もちろん緘口令をしいておくことも忘れてはいけない。
袖の下というのは、こんなときに使うものだ。チップと言う名目だけどね」
「まぁ……でも、相手の方から勧められたら?」
「そのときは仕方なく口にするさ。足元に置いた器にこぼしながらね」
「中身を減らすの?」
「そう、減らすんだ」
「見つかったことは?」
「ないよ。そのための袖の下だからね。
料亭や割烹などの従業員はプロ中のプロだ、客の要望には完璧に
こたえてくれる。
足元の器をさりげなく交換していく動作だど、たいしたものだよ。
あれは神業だね」
「わぁ、そんな神業があるなんて知らなかったわ。ふふっ」
互いの顔は、もうこらえ切れない笑みが広がっていた。
私も彼も、堪えることなく笑い続けた。
料理は評判どおりで、一通りでない趣向を凝らした前菜に始まり、
オーソドックスなメインに続き、気の利いたデザートが出る頃、
私たちの舌は今までになく滑らかになっていた。
「前菜の香草が口に残るかと思いましたが、なかなか。さすがですね」
「ありがとうございます。奥に伝えておきます。
来月に入りましたらフランスから新しい食材が届く予定になっております。
足をお運びいただけると嬉しいのですが」
「羽田さん、ソツがありませんね。
この場で予約をしていけということですか」
「いえ、そのようなことは……ですが、ぜひ」
「珠貴、来月の初旬だが時間がとれないだろうか。
一緒にその新しい食材を試してみないか」
彼が私に向かって嬉しいことを告げてくれた。
これでまた彼に会うことができるかと思うと、私の返事は早かった。
「ぜひ、ご一緒させていただきます」
老齢のギャルソンは満足そうな顔をし、彼は私との会食をその場で
予約した。