ボレロ - 第一楽章 -
年季を思わせるが、きちんと手入れの行き届いた手がエレベーターの
ボタンを押す。
ボワンと心地よい音がして扉が開き、私たちが乗り込みドアが閉まるまで、
羽田さんは綺麗なお辞儀で見送ってくれた。
「外を見て」
「わぁ……」
「楽しい食事だった。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました。それにしても素晴らしい夜景ね。
シースルーエレベーターも、これほどの高さがあると壮観だわ」
「いつもそう思うよ。一人で見るのはもったいないってね」
「本当に……恋人と一緒なら、もっといいでしょうね」
「俺が相手で申し訳ないね」
「あら、そんな意味じゃないのよ。ねぇ、こうしたらどうかしら」
私は彼の腕に手をまわし、寄り添う仕草をした。
突然のことに驚いた様子だったが、彼の顔はすぐにほぐれ、
さらに面白いことを言い出した。
「夜景の見えるエレベーターで恋人ごっこか。
それも酔狂でいいかもしれないね、悪くない」
「そうでしょう。誰も見てないもの」
「君はやっぱり面白い人だ」
言うが早いか、彼は私の耳元に唇を軽くあてた。
「まぁ、冗談が過ぎるわ。
こんなことは、あなたのお相手にすればよろしいのに……
お付き合いしている方、いらっしゃるんでしょう?」
「いないさ。いないから君を誘った」
「そうかしら。この前も、女の方と約束をしていらしたのでしょう」
「あぁ、あれか。義理があったから会っただけだ。断った」
「そう……」
「珠貴に会った後は、どんな女に会っても物足りない」
「もぉ、宗一郎さんたらお上手ですこと」
「本当のことだ。俺は飾り物のパートナーはいらない」
彼の目が真っ直ぐ私を捉える。
視線をそらせず、息苦しいほどの緊張感が私を襲い、次の言葉を上手く
拾えずにいた。
エレベーターがロビーに到着した音を告げる。
この言い知れぬ緊張から抜けだすために、私は務めて無邪気に振舞った。
「着いたわ。恋人ごっこはおしまい」
組んでいた腕をするりと引き抜いた。
腕が抜ける瞬間、彼が私の手首をつかんだ。
だが、エレベーターの扉が開き数人の客が見えると、その手は手首を
静かに放した。
彼の射抜くような視線は私の中にしっかり存在し、つかまれた手首は
その後、時々熱を持ち私を惑わせた。
常に隙のない姿勢を保ち、相手との駆け引きに長けていると聞こえの高い
男の、ふいに零れでた告白。
俺と同じだと思って……
珠貴にはつい何でも言ってしまう。
秘密を共有したから食事に付き合えと、笑って私を脅迫した。
この日から、近衛宗一郎という男性を、より意識するようになっていた。