ボレロ - 第一楽章 -
狩野さんに取り次いでもらうためフロントに歩き出したときだった。
深く静かな声が私を呼んだ。
「まぁ、宗一郎さん。どうなさったの?」
「そっちこそ、やけにめかし込んでるじゃないか」
「えぇ、将来の夫候補に会ってたの」
「ほぉ……今日の相手は?」
「野島工業の……」
「三男坊か」
「えぇ、よくご存知ね」
「野島の会長はやり手だからね。
二番目の息子の会社にも口出ししているそうだ」
「宗一郎さん、そのお話、もっと詳しく聞かせてくださらない?」
私は挨拶もせず、彼の腕を引っ張りロビーのソファへと座らせていた。
そのときの私は自分のことに精一杯で、なぜ彼が絶妙のタイミングでホテルの
ロビーに現れたかなど考えもしなかった。
仕事に関する事情に詳しいのはわかるとして、野島工業の一族の内情に詳しい
はずがないことは少し考えればわかることだった。
狩野さんから聞こうとしていた見合い相手の欠点を、偶然会った宗一郎さんから
聞きだせるかもしれないと気がせいて、私がいつも張り巡らしているアンテナは
しまわれていたのだった。
「話すのはいいが、ここはまずいんじゃないか」
「そうね……でも場所を移すとしてどこに……
私ったら宗一郎さんの都合も聞かず、こちらへはお仕事でいらしたのよね。
本当にごめんなさい。だけどどうしてもお聞きしたいことなの、
いつかお時間をいただけないかしら」
「今でも構わないよ。今日は狩野と約束があって来たんだ……
そうだ、少し待っててくれないか」
それだけ言うと宗一郎さんはフロントへ向かい、ほどなく狩野さんを伴って戻り
私を促してエレベーターへと向かった。
「俺の部屋なら誰に聞かれる心配もないだろう」
「でも……」
ありがたい申し出だったが、それではあまりにも申し訳なく、どうしたものかと
狩野さんに救いを求めると、宗一郎さんの後ろに立っている彼は、任せておけば
いいと言うように片手を挙げて軽く微笑んだ。