ボレロ - 第一楽章 -


「おい、いつもの勢いはどうした。そんなに彼女に惚れてるのか」


「そういう言い方はよしてくれ……」



手酌を始めた彼の前に、大女将が新しい酒器を静かに置いた。

江戸切子の酒器に入った冷酒はいかにも涼しげで、一人で旨そうに飲む狩野に

黙ってグラスを差し出した。



「珍しいじゃないか。シラフでは話せないんだろう」


「なんとでも言え」



当たらずとも遠からずだったが、酒の勢いを借りたいと思ったのは本当だ。



「街中で彼女に拾われたんだ、偶然だった。そのあとまた会った。

それが何度か続いた」


「ははっ、拾われたのか。うん、聞こうじゃないか」



狩野は自分の器に酒を注ぎ足し、空になった私のグラスには半分にも

満たないほど酒を注いでくれた。

私が酔って話せなくなることのないように、加減をして……


大学時代、初めて会ったときから人の話を聞きだすのが上手いヤツだった。

それが少しも嫌味ではなく、気がつくとしゃべらされているといった

具合だった。

経済学などと言うのは、講義を聞いて理解できるものではない。

ましてやマーケティングなどは、経験と応用によって成り立つものだという

のが私の持論だった。



『机上の空論だな』


『まったくだ。実践してこそ身につくってものだ』



思わず口から出てしまった講師への批判に、まさか返事が返ってくるとは

思わなかった。

横を見ると、口の端をあげ人懐っこい顔が私を見ていた。

それが狩野と関わった最初だった。

互いのことはすでに知り得ていた。

口さがない連中は彼のことを、大きなホテルの息子で金にものを言わせ

遊び歩いている、女にも不自由しないらしいなどと言い、聞きもしないのに

同じ専攻の私の元にやってきて、あれこれと吹聴してくれていたのだ。

それは狩野も同じだったようで、近衛だかなんだか知らないが、家柄を鼻に

掛けている取っ付きの悪いヤツだと、私の事を聞かされていたらしい。


面白い男に出会ったと思った。

狩野には聞いたような浮ついたところはなく、人の口ほど当てにならない

とはよく言ったもので、育ちの良さからかおっとりと構え、物事に動じない

落ち着きがあった。

生まれた時から決められた道を歩む人生を背負い、その中で自分を見つけよう

と必死になっているところなど、我々は本当に似通っていた。

女に不自由しないなど誰が言い出したのだろう。

不自由しないどころか狩野には女性の影などなく、迂闊な遊びは身を滅ぼすと

いうことを充分に知っている男だった。



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