ボレロ - 第一楽章 -
そのとき、私はよほど嬉しそうな顔をしたのだろう。
近衛様をご存知でいらっしゃいましたか、と零れるような笑みをたたえながら、
大女将はその場を立ち去った。
「こんなところで君に会えるなんて驚いたね」
「父に急に言われて……約束が今日じゃなくて良かったわ」
「そうだな。今日は親父さんのお供か」
「えぇ、夜の会合にも顔を出すようにって。父も本腰を入れてきたのかしら。
自由な時間が少なくなりそう、困ったわ」
肩をすくめると、宗一郎さんは、それはご苦労なことだと同情の眼差しを向け
ふっと笑った。
何が可笑しいのかと聞くが、笑って教えてくれない。
ねぇ、どうして笑うの?と、続けて聞いているところに後ろから声を
掛けられた。
「珠貴さん、こちらでしたか」
「あっ、櫻井さん。探しに来てくださったのかしら。
すみません、すぐに戻りますね」
男同士で浅い礼を交わし、この男は誰なのだといった表情は、互いを
紹介しなければならない雰囲気になっていた。
こちらは、私のお友達のお兄様で近衛さんとおっしゃって、
偶然お会いしましたの。
こちらは……と紹介しようとする私の声を彼が遮った。
「櫻井です。珠貴さんのお父様には、大変お世話になっております」
彼の名前を聞いて、宗一郎さんの顔が変わった。
不快な表情に見えたのだがそれはほんの一瞬で、すぐにいつもの落ち着いた
鋼鉄の笑みを浮かべていた。
「そうですか……では、私はこれで。須藤さん、また……」
それだけ言うと、宗一郎さんはさっと背を向けて立ち去ってしまった。
櫻井さんに促され部屋に戻りながら、私は胸が苦しくなっていた。
”須藤さん” と、彼から苗字で呼ばれたのは初めてだった。
ずっと ”珠貴” と呼ばれていたのに、急によそよそしい宗一郎さんの
物言いを思い出し、言いようのない寂しさが込み上げてきた。
自分の意思とは関係なく滲んでくる涙に、こんな顔では戻れないと思い、
電話が入ったのでと彼に言い訳をし廊下を引き返した。