ボレロ - 第一楽章 -
私の足は宗一郎さんが立ち去った廊下を進んでいた。
入り組んだ造りの中でふたたび彼に会える保証もないのに、彼の姿を追わず
にはいられなかった。
廊下の角を二回曲がったその先に、いきなり彼の姿が現れた。
柱に背を預け、ポケットに手を入れた格好で立っていたが、私に気がつき
顔を上げ辛そうな目を向けられハッとした。
「どうにもやりきれない気分になってる。さっきは無様な姿をさらしたよ」
「無様なんて、そんなこと……彼に紹介することになってごめんなさい」
「彼が櫻井の……申し分のない相手のようだ。
君と一緒にいる男の前で怯むことなく名乗った」
「私、今日会うなんて知らなかったの。まさかこんな……」
「そうか、俺もここで君に会えるとは……喜んだのもつかの間だったがね」
「もう私の名前を呼んでくださらないの? さっきも須藤さんって……
寂しかった、あんな言い方。いまだって、君って」
「仕方ないだろう。彼の前で名前を呼ぶわけにいかない。
向こうが先に君の名前を呼んだ。それが癪に障って
無性に腹が立って……こんなところで立ち止まっている」
「でも……私……あなたに突き放されたみたいで……」
宗一郎さんの目は険しくなり、自嘲気味に吐き出される言葉が胸に突き刺さる
ようで辛かった。
まだポケットに手を入れたまま、いったん私を見た目は逸らされ、庭に顔を
向けながらこちらを見ようともしない。
「俺は君の立場を考えて言ったつもりだった。そんな風に受け取ったのか。
残念だよ」
「あのね、そうじゃないの」
「君にとっては俺は紫子の義兄でしかなかったようだ。
こっちは特別な友人だと思っていたがね」
「それは誤解よ。彼にはそうとしか紹介できなくて、
どうしてわかってくださらないの」
「もういい、言い合うのはよそう……さっきは笑ってすまなかった。
自由にしてきた君が束縛されるのが滑稽に思えたんだ。
そうだな、これから君も思うように時間が取れなくなるだろう。
誘うのも迷惑になるってこともあるね」
今夜の宗一郎さんは饒舌だった。
けれど、それは楽しいものではなく、一方的な感情を述べる皮肉めいた
口調になっていた。
「ねぇ、どうしたの? 今日の宗一郎さん、いつもと違うわ」
「そろそろ我々の立場もハッキリしてきたってことだ……席に戻るよ。
それじゃ」
彼を追いかけていきたかった。
ねぇ、どうしたのなんて、気がつかない振りをした自分が情けなかった。
彼にあんなことを言わせて、辛い思いにさせたのは私だ。
”俺もここで君に会えるとは……喜んだのもつかの間だったがね”
偶然会えたことを嬉しいと言ってくれたのに。
私も、同じ気持ちだったのに……
宗一郎さんの気持ちがわかっていながら、彼の気持ちを思いやることが
できなかった。
わかっていながらどうしても前へ進めず、私は廊下に立ったまま、
しばらくのあいだ込み上げる後悔と滲む涙をこらえていた。