ボレロ - 第一楽章 -
「珠貴さん」
「櫻井さん……電話の後 戻るつもりが迷ってしまって……」
「そうでしたか……もう少しここにいましょうか。
急いで帰ることはない。
僕らが一緒にいたとわかればかえって喜ばれるんじゃないかな」
「ごめんなさい、少し時間をいただけますか」
櫻井さんは私の苦痛な表情に気がついたはずだ。
けれど、どうしましたか、でもなく、なにかありましたかと聞くでもない。
ただ黙って私のそばにいるだけだった。
それが彼の優しさだと思われた。
人はかまって欲しいときと、そうでないときがある。
私の気持ちが落ち着くまで待つつもりなのだろう。
縁側に座り、牡丹の株が見えますね、これが咲いたら綺麗だろうな、
と独り言が聞こえてきた。
「ありがとうございました。もう大丈夫です。
ここに櫻井さんがいてくださって良かった」
「僕を嬉しがらせる台詞ですね……では、行きましょうか」
彼は何も聞かず、私の背にそっと手を添え、前に進めるように力を貸してくれた。
この人となら、もしかして……
私の中に、これまでにない気持ちが芽生えようとしていた。
数日後、宗一郎さんからメールが届き、急ぎでメールを開いたが、その文面に
私は大きなショックを受けた。
『明後日の会食の約束ですが行けなくなりました。
以後の予定も立ちませんので、今回は見送らせてください。また連絡します』
やけに丁寧な、そして、他人行儀な文面だった。
この前のように、また一緒に……とは、もう言ってくれないのだろうか。
珠貴……とは、もう呼んではくれないのだろうか。
最後の ”また連絡します” の言葉が僅かな救いだった。
時間をおかず、今度は仕事用の携帯にメールが届いた。
櫻井さんからだった。
『あなたの曇った顔が気になっています。少しは元気になりましたか。
明日は笑顔のあなたに会えますように』
最後に ”櫻井 祐介” と名前があった。
櫻井さんの優しさに、曇った顔が晴れていくような気がした。