ボレロ - 第一楽章 -


螺旋階段を昇りながら、彼女に見せる顔はどんな表情がいいだろうかと

些細なことで悩み、一段一段近づく待ち合わせ場所への到着を遅らせている

自分が情けなかった。 

3階にある店に入り店内を見回すと、平岡の言ったとおり客はまばらで、

数組のカップルが見えるだけだった。

奥の窓際に目を凝らすと、求めた顔が見えた。

私と視線が合うと手を上げ、こっちよと言ってくれているようでそれだけで

嬉しかった。



「こんな時間につき合わせてしまったが、大丈夫だったのかな」


「えぇ、夜だけ開くカフェなんて興味がありますもの。

お誘いありがとうございました」



丁寧に頭を下げたが、あげた顔がふっと笑うと、可笑しそうに口元に

手を添えた。 



「友人の人生相談にのるから、帰りは遅くなると家の者には伝えたんですよ。 

深刻な悩みらしいのほっとけないのよってね……」


「はは……そんな口実まで言わせて誘い出して申し訳なかった。

ここの評判を聞いたものの、男一人では入りにくくてね。助かったよ」


「こちらこそ、私だってきっとそうだわ。

真夜中のカフェに一人で入るのなんて寂しいもの」



珠貴の口から 「寂しい」 と聞くといたたまれない気分になってくる。

できるだけ彼女の顔を見ないように、何気なく言葉を続けた。

学生時代の仲間とビリヤードをしてきたと話すと、珠貴も心得があるらしく

話題には事欠かなかった。

彼女も私も、料亭で会ったことなど忘れたかのように、これまでと変わりない

会話が続いていた。

どちらも触れたくないのだ。 

自分の言ったことが、相手を傷つけてしまったと思っているのはわかって

いたから、あえて傷口に触るようなことは避けたかった。


そのうちに、予想を上回る見事なスイーツの登場で、食べることを優先

しなければならなくなっていた。

ジェラードが添えられたケーキは、日本人の胃袋に見合わない大きさで、

食事のあとのデザートとしてはあまりにも立派だった。



「甘いものは好きだが、これを毎日はキツイな」


「そう? イタリアで暮らしていた頃は、毎日頂いていたわ。

店頭に並ぶお菓子の美しさに、つい買っちゃうの」


「イタリアには長く?」


「2年ほどね。父に呼び戻されて仕方なく帰国したけれど。

いまではいい思い出……」



珠貴の調書にあった2年間の空白は、イタリア滞在だったのかと謎が解けたが、

何をしに行っていたのかと聞くのが躊躇われた。

今は良い思い出になっているが、当時はそうでなかったということだろう。

含みのある告白は、それからも続いた。

毎日通った市場の会話が楽しかったことや、ケーキにはエスプレッソが

合うのだと信じて疑わない友人の話。 

隣りに住んでいた留学生が、実は石油王の息子だったとか、

楽しそうに話してくれるのだが、肝心な自分のことは一切口にしないと

気がついていたからだ。


珠貴の話を聞きながら、少しずつ切り分け口に運んでいたケーキはいつの

間にかなくなり、食べ切れそうにないよって言ってなかった? 

と彼女に笑われてしまったが、笑われても良かった。 

珠貴のいつもの笑顔が見られた。

今夜はそれだけで充分だった。 

口の中に残った甘さを消そうとコーヒーを頼みかけたが、この時間にこれ以上

飲んでは明日の朝起きられる保証はないと思いとどまり、口元に甘さを

残したまま店を出た。





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