ボレロ - 第一楽章 -


先ほど昇ったときはさほどとも思わなかったのに、階下を見るとかなりの

急勾配で、降りるための足が止まっていた珠貴の手を取り、先導するように

慎重に階段を降りた。

螺旋階段の吹き抜けにカンカンと足音だけが響き渡る。 

黙って足音だけを聞きながら下る階段は、繋がれた手のぬくもりがやけに熱く

感じられて、この場に二人だけなのだと意識せざるを得なかった。



「ちょっと待ってください。あれを見て」


「どこだ」



彼女が指し示す先に見えたのは、ステンドグラスがはめ込まれた天窓だった。

階段を照らす薄暗い照明より明るい外のネオンの光を受け、鮮やかな色の

重なりが美しかった。

いつの間にか横に並んだ珠貴は見上げていた顔を戻し、目を閉じて私の服の

香りを嗅ぐ仕草を始めた。



「いい香り……きっと、ソースがどこかに零れたのね。

甘い香りが漂ってくるもの」


「そうかもしれない。香りの強い酒が入っていたようだ」


「大丈夫? 酔ったりしないかしら。宗一郎さん、お酒にあまり強くないのに」


「これくらいは何てことない。だけど、どんな酒だろう。

口の中に甘さが残って抜けないんだ」



ふいに珠貴の顔が目の前に来た。

目を閉じたまま鼻を小さく動かし、私の発する香りを嗅ぎ分けようとしている。



「リキュールだと思うんだけど……カシスかしら」


「これならわかると思うが……」



考え込んだまま半開きになった珠貴の唇を捕まえ、彼女の口に香りを移し、

甘い余韻を残しながら離れた。



「……クレーム・ド・カシス だと思うわ……」


「そんな名前がメニューの説明にあったよ」


「そう、良かった……」



互いに無言のまま、ふたたび階段を降り始めたが、さきほどよりしっかりと

絡めた手と、そこに伝わる体温の上昇が二人の変化を物語っていた。



「珠貴も飲まないのに、酒の名前に詳しいんだ」


「それほどでもないのよ。カシスは色も甘さも強いお酒だから……

やっと……名前を呼んでくださった」


「あっ、うん……意地を張って悪かった」



私たちの足はまた止まっていたが、手は繋がれたままで、階段の上と下で

視線を外したまま話が続いていた。




「うぅん、今夜のメール嬉しかった。ずっと待っていたの……

また連絡しますといただいて、そのままだったもの……」


「シャンタンに、来月の予約を入れても良いかな」


「えぇ、ぜひ……ここのスイーツも美味しかったけれど、

シャンタンのシェフのデザートの方が好きだわ」


「羽田さんが聞いたら喜ぶだろう。そう伝えておくよ」


「ギャルソンの羽田さんね。あの方は宗一郎さん付きなの?」


「まぁ、そういえばそうなんだが、彼があの店のオーナーなんだ」



二段上にいる彼女を振り仰ぐと、えっ、と言ったきり口が開いたままで

驚きのほどが覗えた。

羽田さんがオーナーだと、どうして早く教えてくださらなかったのと、

珠貴らしい言い方で私を責める。

しまいには口を尖らせて、本当に意地悪ねと私を悪者にして睨みつけが、

その目には優しさが同居していた。


デザートと私のせいでブラウン系のルージュは薄くなっていたが、

艶やかで程よい厚みをもつ唇は色などなくても充分に私を惹きつける。

先ほどからずっと舌先に残る甘さを探っていたのだが、彼女が注文した

ケーキに添えられていたマスカルポーネの甘さであると気がつき、

思わず口元が緩んだ。





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dolcemente (伊) ・・・ ドルチェメンテ 甘く 優しく 

chantant (仏) ・・・ シャンタン 音楽的な 歌うような (二人が通う会員制フレンチレストランの名)  




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