ボレロ - 第一楽章 -
小型と称したが車内は思いのほか広く、彼によるとごく僅かの間だけ
生産されたプレミアム車なんだと男性らしい話題を持ち出し、
「君の車も小型車だったね。走りが良かったよ」などと、
初めて会ったときに乗った感想を、今さらのように話し出した。
この車の助手席にほかの女性が座る日は近いのだろうか。
夜の街を走りながら、考えることといったらそんなことばかりで、
こうして彼と二人で車に乗ることもなくなるのかと思うと、さっきの楽しい
時間までもが寂しく感じられた。
自宅まで送るのは都合が悪いのではないかと彼の気の遣い方は細やかで、
男性に送ってもらうには遅すぎる時間帯でもあり、自宅から程よく離れた
場所で降ろしてもらうことにした。
「ここならタクシーを拾えるはずだ。今夜はありがとう。遅い時間に悪かった」
「うぅん、こちらこそありがとうございました……
待ってたのよ、宗一郎さんのメール。
この前、あんな畏まったメールをくださったから、どうしたのかと思って」
「……あれは……本当に急に仕事が入って、その場で送ったから
あんな文章になったんだ。他意はない」
「そう……シャンタン、またご一緒できますね」
「あぁ、予約できたら連絡するよ」
「待っています」
シートベルトを外してくれる彼の手が胸の前を行き来する。
他の女性にも、食事に誘ったあと車で送り、こうやってベルトをはずすの
だろうか。
私にだけ見せる姿だといいのに、などと都合の良いことを思いながら、
先日から抱えていた心の重荷を口にした。
「筧でお会いしたとき……宗一郎さんに気まずい思いをさせてしまって」
「いや、俺の方こそ、珠貴に嫌な思いをさせてしまったんじゃないかと
気になっていた」
「そんなことはありません」
他に言いたいことがあったはずなのに、彼の素直な言葉に私は首を振りながら
微笑み返していた。
宗一郎さんの手が肩におかれ、じっと見つめていた顔が近づいてきた。
見つめられる視線をかわすように、ゆっくりと目を閉じると、耳元に
「おやすみ」 とささやくような声が届き、頬に軽く手がふれたあと
彼の気配が遠ざかっていった。
唇が重ねられるのではないかとどこかで期待をしていた自分が恥ずかしく、
おやすみなさいと返すと、さっと車から降りたのだった。
「……これでいいですか? 珠貴さん、どうしました?
今日は疲れているんじゃないかな。もうおしまいにしましょう」
「えっ? そうですね、少し疲れているみたい」
取り繕った返事をし、櫻井さんの心配げな顔に無理な笑顔を向けた。
ほら、その顔が疲れているんですよ、としたり顔で言う櫻井さんの言葉は
くだけたようで優しさが伝わってくる。