ボレロ - 第一楽章 -


その日も、打ち合わせのあと櫻井さんと夕食をともにし、いつのものように

自宅まで送ってもらった。

彼は門の前に車を止め、急ぎ降りると助手席のドアを開け私を外へと導き出す。

それは毎回行われ、ためらうことのない動きを、私も当たり前の情景として

捉えていた。

今夜もそうなのだろうと思い、車が止まると降りる準備としてシートベルトに

手を掛けた。

けれど今夜は少し様子が違っていた。


私の前を通り過ぎた櫻井さんの手が私の手と重なり、静かにベルトをはずすと、 

ふたたび胸の前を引き返そうとして止まった。

それは、まるで再生画像のようだった。

肩におかれた手

耳元でささやくような おやすみの声

頬に触れた手

そのどれもが、宗一郎さんとすごしたあの夜を思い出させた。



車の音を聞きつけたのか、玄関を入ると母が迎えてくれた。



「櫻井さんに送っていただいたの?」


「えぇ……」


「たまにはお茶にお誘いして差し上げて」


「そうね、そうします」



まだ何か言いたげな母の前を通り過ぎ、急ぎ自分の部屋へ足を向けた。

服を脱ぐとシャワーブースへと飛び込み、勢いよく落ちてくるシャワーに

体を濡らした。 


櫻井さんは、強引ではないけれど少しずつ距離を縮めてくる。

その距離感は、私に期待を持たせるために、絶妙な駆け引きをしているの

ではないかとさえ思わせる。

決して不快ではない。

だが、私は自分の感情に戸惑っていた。

憎からず思う相手から触れられた頬に違和感があった。

一生を共にしようと思う人なら、もっと何かを感じるはず。

ときめくとか高揚するとか、もっと一緒にいたいとか、そんな感覚だ。

相手に好意を持つほど自分に触れて欲しいと思うものなのに、

いまはまだ、櫻井さんに対してそう思えないのだった。

それとも、これからそんな感情が芽生えてくるのだろうか。


ふいに一人の男性の顔が浮かんできた。

宗一郎さんとなら……

重なる顔を想像して、ハッと鏡の中の自分に気がついた。

シャワーを切り替えて水を浴び、頭に思い描いた彼と自分の姿を打ち消した。





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