ボレロ - 第一楽章 -
私の不機嫌を察知したのか、それ以上母の口が開くことはなく、父はと言うと
黙ったまま。
母と娘のやり取りを目の前に、平然と食事のあとのコーヒーを手にしている。
櫻井さんとの縁談はすでに決定事項であり、それに辻褄を合わせようと
仕組まれたことだった。
腹立たしさを抱え、ご馳走様でしたと席を立ち部屋を出ようとした私の背に、
父の低い声が掛けられた。
「話を引き伸ばすのはかまわないが、この話は決まっていることだ。
それだけは言っておく」
「お父さま、あの約束を覚えていらっしゃる?
私の気持ちが向くまで待つとおっしゃったわ」
「イタリアの二年間だけで充分だ。それを何年待たせる気だ。
あんな男のことをいつまで……」
「あなた、それは」
慌てて母が父の言葉を遮り、数年前毎日のようにくり返された私と父の争いを
食い止めた。
言いようのない怒りが込み上げてきたが、ここで言い争うほど私はもう
子供ではない。
お父さま、先に行きますね……お母さま、今夜は帰りが遅くなりますから……
そう告げると、私は両親の前を立ち去った。
父の本心が見えた。
私が未だに別れた男性に心を残していると思っていたのか。
冗談じゃない、そんな気持ちはあの時に捨てた、彼が去ったときに……
私の心に残って消えないものは別にある。
わかってくれていると思っていたのに、そうではなかったようだ。
充分待ったなどと、簡単に片付けられたことが腹に据えかねた。
どれほど渦巻く心を抱えていても、仕事に差しさわりがあってはならない。
睨み付けたい父の顔がそばにありながら、私は淡々と仕事をこなしていった。
互いに必要なことしか話さず、社長と秘書の関係に徹した半日だった。
誰かに聞いて欲しかった。
両親に言いたくても言えない鬱憤を、どこかに吐き出してしまわなければ
どうにかなりそうだ。
友人達の顔を思い浮かべたが、黙って話を聞くだけではすまない友ばかりだ。
昔のいきさつを思い出させる話へと向かっていくだろう。
私の過去を何も知らない人がいい。
誰を思うより彼の顔が浮かんだ。