ボレロ - 第一楽章 -
携帯を手に宗一郎さんのアドレスを探した。
『この前のイタリアンスイーツの味が忘れられなくて、今夜いかがですか?』
『今夜は遅くまで接待が続きそうだ。明後日なら』
『急にごめんなさい。また』
彼は会社にとって大事な人……
忘れていたわけではなかったが、彼の懐の深さについ頼ろうとした。
情けないため息をひとつつき、携帯をしまおうとしたときだった。
手の中が震えだした。
『メールが気になった。どうした、何かあったんじゃないか』
『……うん……』
電話から宗一郎さんの心配そうな声が聞こえてきた。
耳に心地よく響く彼の低い声に、自分を偽ることができなかった。
『わかった。11時過ぎなら行けそうだ。
待っててくれ、できるだけ急いで行く』
『はい……』
私が答えたのは ”うん” と ”はい” だけ。
彼の優しさが伝わる声に込み上げるものがあり、携帯を握り締めたまま
しばらく立ち尽くした。
3階へと続く螺旋階段はほの暗く、足元がわかる程度の照明がぼんやりと
灯るだけ。
足を運ぶ度に、カツンカツンと自分の寂しげな足音が聞こえてきた。
途中、踊り場で足を止め天窓を仰ぎ見る。
この前、ここで……
甘酸っぱい思いが胸をよぎったそのとき、階下から急ぎ駆け昇ってくる
気配がした。
私の姿を見つけると、その足取りはさらに速まった。
踊り場までたどり着いた宗一郎さんは、「待たせたね」 そう言ったっきり
私の顔をじっと見ている。
今来たところよ……こう答える代わりに、小さく首を振った。
口元が優しく微笑むと、黙って私の右手を取って歩き出した。
階段の一段上を昇る人に遅れないように、私も足を進めていく。
何も聞かずに、黙って手を引いてくれる人がいる。
引かれる手に頼るのは、こんなにも楽なものなのか。
宗一郎さんの足元を見つめながら、淡々と昇っていた階段があと一段の
ところで、私の腕は勢い良く引っ張られ彼の懐に抱きかかえられた。
頬に伝わる胸の温かさで、そのときまで抱えていた怒りや理不尽な思いの
すべてが、溶けてしまいそうだった