ボレロ - 第一楽章 -
「ありがとうございました。今夜は楽しかったわ」
「俺も楽しかった」
彼女のシートベルトをはずし、おやすみと声を掛けながら頬に手をおいた。
珠貴が 「おやすみなさい」 と言いかけた声に言葉をかぶせた。
「今ならいいのかな」
「なぁに?」
「さっき言ったじゃないか、ここじゃダメだって」
珠貴の唇に親指を這わせ、一文字になぞっていく。
私の指を意識しながら、彼女は往生際の悪い台詞をこぼした。
「そうだけど。うぅん、そうじゃないわ」
「こんなときは目を閉じるもんだ」
「……」
なおもしゃべろうとする口を指で押さえつけると、観念したのかようやく
目が閉じられた。
すでに薄く開いている唇をとらえ、ゆっくりと顔を重ね、柔らかな感触を
確かめるように吸い込んだ。
彼女も私に合わせながら、唇が緩やかに応じる。
「キス、お上手なのね」
「誰と比べてるんだ」
唇の先だけ触れ合ったまま、珠貴との会話が進んでいた。
「誰ということはないけれど……」
「そんなことはないだろう、君だって上手いよ」
「まぁ、宗一郎さんこそ、誰と比べて……」
甘い吐息の中、まだしゃべり続ける口をふたたび覆った。
彼女の上品な舌は、緩やかに触れては滑るように引いていく。
それを追いかけるために、さらに深く唇を合わせた。
互いの口をひとしきり彷徨い、すっと顔を外したが、視線を合わせるには
気恥ずかしさがあり、また抱き寄せて耳に唇をあてた。
「ピアス、しないんだ」
「そういうの好きじゃないの。イヤリングも滅多にしないのよ。
アクセサリーそのものが苦手だわ」
「珍しいね。女は競って身を飾るものだと思ってた」
「そういう人もいるわ。だけど……はぁっ」
うなじから鎖骨へと指を這わせながら肌をなぞると、珠貴から艶やかな
吐息が漏れた。
けれど、それもほんの一瞬。
すうっと息を吸い、静かに吐き出し呼吸を整える。
弱みを見せまいとする珠貴らしさだろう。
「クリスマスプレゼント、何がいいかしら」
「いいよ、今夜もらった」
「今夜って、また、そんなこと……考えておくわね」
「あぁ 楽しみにしてるよ」
唇をついばみながら交わされる会話は甘美なものだった。
車から降りた珠貴の背中を見送ったあと、連絡事項の確認のためメールを
チェックする。
業務報告の味気ない文字が並ぶ文面を目にして、突然現実に引き返された。
甘美な時間を思い出そうと珠貴の顔を思い浮かべた。
ステディではない相手とのキスでも楽しむことを知っている女性は、
そういるものではない。
理美はいつも受身だった。
目を閉じて、じっと口付けを受けていた……
嫌な顔などしなかったが、理美の心を知ってから、可哀想なことをしたと
罪悪感が募った。
”宗一郎さん ごめんなさい”
元婚約者の最後の言葉が、心の隙間から這い出してきた。
どうにも今夜は甘い気分に浸ってはいられないようだ。
アクセルを踏み込み、真夜中の街へとまた走り出した。