ボレロ - 第一楽章 -
食後の会話を充分に楽しみ、レストランを出たのは夜中の12時すぎだった。
乗り込んだエレベーターから見える明かりが次第に消えていく。
「櫻井さんとのお話ですけれど、保留になったのよ」
「保留? 断ったんじゃなかったのか」
「会社内部がざわついているから、しばらく待って欲しい、そうおっしゃるの。
お断りしますと言えなかったわ。
昨日もね、実はお食事の約束があったのに、直前にキャンセルよ。
おかげで久しぶりに家族と過ごしたわ」
「どうしても君の家との繋がりが欲しいようだな」
「私の家というより、父の会社でしょうね。私の気持ちなんて関係ないの」
そうとも言い切れないだろうと言いかけて、私は口をつぐんだ。
『割烹 筧』 で会った男の目は確かに珠貴を見ており、彼女と一緒にいた
私をかなり意識していた。
「母なんてあれほど乗り気だったのに、
不正発覚のニュースで熱が冷めたみたい。
もう他の方とのお話を持ち出すんだもの、嫌になるわ」
「母親ってのは、どこの家も似たようなものだ」
「宗一郎さんのお母さまもそうなの?」
「君の家ほどじゃないけどね」
二人で訳もなくため息がもれ、そのタイミングにふっと笑いが込み上げた。
珠貴の頬に手を添えると、悪戯っぽい目が向けられた。
「こんなときは目を閉じるものだ……とおっしゃるおつもり?」
「そういうこと」
消えゆく明かりを目の端に入れながら、珠貴の唇へと視線を落としながら
近づいた。
熟れた果実にも似た唇の感触は、私を充分に魅了するだろう。
さきほど、狩野の手にルームキーを戻したことを、このとき少しだけ後悔した。