ボレロ - 第一楽章 -


「ふたりともどうした。まるで夫婦喧嘩だな」



まったく仲がいいんだか悪いんだかと続け、口元を押さえながら笑いを

かみ殺している狩野さんの隣りには、モスグリーンのドレスを着た女性が

寄り添うように立っていた。

紹介されるまでもなく、狩野さんの婚約者であるその人は、宗一郎さんへ 

「今夜はありがとうございます」 と優しい声で礼を言い、私へは 

「初めまして」 と親しみを込めた挨拶をくれた。

男性二人はいつものように気の置けない会話に入り、私と彼女はその横で

自己紹介が始まった。


「佐保です」 と丁寧なお辞儀をした姿は、実に様になっていた。 

将来のために他のホテルで修行中だと聞いていたし、彼女の礼の形は営業的に

躾けられたものだったが、それだけでなく佐保さんには人を和ませる

佇まいがあった。

慇懃な礼は人を寄せ付けない雰囲気をもたらすことがある。 

シャンタンの羽田さんがそうだ。

ベテランギャルソンの彼は、物腰は至極柔らかいものの、決して踏み込めない

境界線があるように、余計なことを聞けない雰囲気を携えている。

けれど佐保さんは逆だった。

ふんわりとした顔立ちのせいもあるのだろうが、私は佐保さんに対し

初めからまったくといっていいほど警戒心を抱かなかった。



「私からも、ぜひお祝いを贈らせてくださいね」


「ありがとうございます。楽しみにしていますね」



いいえ、そのようなお気遣いはよろしいです……と返事が返ってくるのではと

構えていたのに、楽しみにしていますねと喜ばしい言葉が聞かれ、

佐保さんのことがますます気に入った。



「珠貴さんでしたのね。

近衛さんがご一緒される方がいらっしゃるとお聞きしていたので……」


「どんな風にお聞きになったのかしら。

宗一郎さんのことだもの、きっと私のことを、気の強い性格だって 

そう言ってたでしょう」


「いいえ、とても気持ちのいい方だとおしゃってましたよ。

それから、大事なひとだからと」


「大事なひと……」


「えぇ、ですから今日お目にかかるのをとても楽しみにしていましたの」



そこまで話したとき ”さほ” と狩野さんの呼ぶ声に、彼女は 

「のちほどお話しましょう」 と微笑むと、私に余韻を残して去っていった。


”大事なひと” 


佐保さんの言葉が耳に残る。

彼から贈られたイヤリングを確認するように、私は思わず耳元に手を

おいていた。 




< 67 / 160 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop