ボレロ - 第一楽章 -
佐保さんが足早に会場を出る私に気がついたのか、駆け寄ってきてくれたが
”お先に失礼します” そう告げるのが精一杯だった。
本当は走って逃げ出したい気分だった。
けれど、そんな素振りを見せるのは私のプライドが許さない。
自分の意思でここにはいたくないから帰るのだ、そう自分に言い聞かせながら
会場を後にした。
部屋を出たところで、前から歩いてきた男性にぶつかった。
真っ直ぐ前を向いて歩いていたはずなのに、腹立たしい思いにとらわれていた
私には、周りが見えていなかったようだ。
「すみません」
どちらからも同じ言葉が出て、顔を上げて驚いた。
ぶつかった相手は、宗一郎さんの秘書の平岡さんだった。
「平岡 彼女を引き止めてくれ」
「私、先を急ぎますので。失礼します」
「すみません、僕は先輩に言われたことを守ることにしていますので」
平岡さんの思いのほか力強い腕に手首をつかまれ、あとを追いかけてきた
宗一郎さんに引き渡された。
いきなり飛び出した私に憤りを感じているのか、彼の目は険しく哀しげだった。
「平岡、少し席をはずす。狩野には適当に言っておいてくれ。
蒔絵さんがきている。あとは頼む」
「わかりました」
平岡さんから引きつがれ、今手首を握っているのは宗一郎さんだった。
黙ったまま私の手をひっぱり歩き出した。
「どこにいくんです。離してください」
「話ができるところへ行く。俺の部屋ならいいだろう」
「どうして勝手に決めるんです。
離してくださいと申し上げたのが聞こえなかったの?」
「聞こえたさ。君が帰る理由を聞くまで手を離さない」
「理由ですって? それなら簡単です。
イヤリングをつけた顔をお見せしたわ。それで充分でしょう」
「言ってる意味がわからないね」
「わからなくて結構です。これ以上、私に恥をかかせないで」
私の言葉に彼はかなり動揺したようだ。
立ち止まり、いぶかしげに私の顔を見つめ、そんな私たちをホテルの客が
怪訝そうに見ては通り過ぎていく。
「とにかく話のできるところに行こう。
ここにこうしているのは、我々のためにも良くないと思うが」
「そうですね」
彼の言うことはもっともだった。
手首をつかまれた女が、不機嫌そうに男に詰め寄っているのだから、
それだけでも人目を引く。
ましてや 私たちが一緒にいるところを誰かに見られて、人づてで噂となり
興味本位の人の口の端にのぼらないとも限らない。
私は彼の提案を不承不承受け入れることにした。