ボレロ - 第一楽章 -
 

この部屋に入るのは何度目だろう。

宗一郎さんが気分を悪くして一緒に来たのが初めてだった。

シャンタンの食事のあと、彼の忘れ物を取りに寄ったこともあった。

いずれにしても悪い記憶ではなく、私だけが知っている宗一郎さんの顔を

見ることができたのだと思っていた。

彼の特別な友人として、この部屋に迎えられたのだと……自惚れにも近い

感情が私の中に存在していた。

部屋に入ってすぐ、宗一郎さんの携帯が着信を告げ、少し待ってくれといった

仕草をして、彼は隣りの部屋へと移って行った。

仕事の電話なのか、漏れ聞こえてくる声に厳しさがあった。

隣りは寝室になっている。

彼を介抱するため、一度だけ足を踏み入れた。  

宗一郎さんが仕事で使うと言っていたこの部屋に、蒔絵さんも来たことが

あるのだろうか。

彼女が交際相手ならあって当然のはず。

ベッドに横たわる蒔絵さんの姿が浮かびかけて、私は映像を振り払うように

頭を振った。


宗一郎さんの電話は込み入ったものなのか、細かく指示を与えるような口調が

聞こえていたが、私は電話が長引く分だけ気持ちが落ち着いてきていた。

私はなぜここにいるのか、基本的なことを自分に問いかける。

彼に呼ばれたからいる、それだけだ。

宗一郎さんに何を期待していたのか、今夜のパートナーとしての扱いが

なかったから腹立たしかっただけ。 

そう……だから苛立ちもした。

私たちはステディな関係ではなかったはず、そんなことは最初からわかって

いたのに、彼の横に立つべき女性の姿を目にして、戸惑い、心の奥が大きく

揺れた。


いまになり自分の気持ちに気がつき、ごまかしきれない想いにとらわれる

なんて……

この想いは、宗一郎さんに気付かれてはいけない。


ようやく今の自分の立場を思い出した私は、急ぎ心の整理を始めた。

彼がここに戻ってくるまでに、なんでもなかったように振舞わなければ。


”ごめんなさいね。ちょっとした誤解だったの”


そう言って余裕のある微笑を見せるのだ。

レストルームに入り鏡に向かうと、取り出したルージュをリップブラシにとり

唇においた。

丁寧に輪郭を描き紅を重ねる。

女は紅を引いて戦うのだと何かの本で読んだ事がある。

鏡の中の私は、見違えるように取り澄ました顔をしていた。




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