ボレロ - 第一楽章 -
宗一郎さんの足音が近づいてくる。
「蒔絵さんは平岡の……彼が付き合っている女性だよ」
「えっ……」
振り向くと苦痛を滲ませた顔が私をじっと見ていた。
「言葉が足りなかったことは謝る」
「いいえ、私の方こそちゃんとお話も聞かず、ごめんなさい」
宗一郎さんが小さく頭を振って 「こっちこそ」 と声を漏らし、
一歩近づくと私の手をとった。
互いに謝ったものの、何か言いたげに手だけがつながっていた。
「一緒に戻ってくれないか」
「でも……私でいいの?」
聞き返した瞬間、さらに歩み寄った宗一郎さんに緩やかに抱え込まれた。
優しい抱擁が、私の頑なになった心をほどいていく。
「今のままの君でいい」
「親しい友人のあいだはいいけれど、私……
いつか他の方と婚約するかもしれないのよ」
「だが、いまはそうじゃない。だから今夜も来てくれたんだろう?
そう思っていたよ」
「そうだけど、これから先はどうなるのか、私の思い通りにはいかないの」
こんな言葉を口にしながら、私は宗一郎さんの腕に体を預け安心しきっていた。
このとき、私たちは互いの気持ちに気づいてしまった。
気がついていたが気づかぬ振りをしてきたのに、溢れ出る思いを隠すことが
出来なかったと言ったほうがいいのかもしれない。
「珠貴が嫌な相手なら、断れるだけの情報を集めてやるよ」
「頼りにしてます……でもそうなると、また両親とケンカだわ。
いつになったら決めるのって」
「だから言っただろう、そのときは俺が引き受けるって」
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで充分よ」
冗談ではなく、彼のもとにいけたらどんなにいいだろう。
私の条件を満たす男性は、彼のほかにはいないのではないかと思うほど
なのに……
宗一郎さんとすごす時間は、すべての煩雑な事柄から私を解き放ってくれる。
家も立場も忘れ、一時の開放感に浸っていられる相手なのに、彼と寄り添う
ことは私には許されない。
私の条件のひとつを満たすことが出来ないからだ。
後継者であることは、私の夫になるべき相手の条件には含まれない。
どれほど惹かれても、互いが求め合っても、その一点が邪魔をする。
「仲間に紹介するよ」
「蒔絵さんにも、もう一度紹介してくださるわね」
「あぁ、わかった」
そう言いながら私の首を引寄せて支えると、宗一郎さんは唇を寄せてきた。
互いに惹かれていると気がついているのに、そうとは口にできない立場が
もどかしく、そして恨めしかった。
正直な唇だけが互いを求め、離れるのを惜しむようについばんだ。