ボレロ - 第一楽章 -

13, calmando カルマンド (静まって)



『イベントの準備に追われているわ。

部屋も立ち上げたばかりですもの、挨拶回りってこんなに大変なのね』


『順調らしいね。忙しそうじゃないか』


『えぇ、合間に出張も入って、明日は金沢なの。お休みもないのよ』


『そうか、こっちは明日から平岡と仙台だよ』


『私は蒔絵さんと一緒よ。宗一郎さんもお忙しそうね』


『あぁ、平岡がため息をついてるよ』


『ふふっ、蒔絵さんも同じよ』



このところ、ベッドに入る前の電話が習慣になっていた。

互いの忙しさから月例の食事会もままならず、予定変更を伝え合っていたのが、

いつしかその日の報告になり、毎晩ほぼ決まった時刻に私の携帯電話が

着信を告げるようになっていた。


着信のない日もあるが、それは宗一郎さんが夜中まで仕事をしていることを

意味し、そんな日は私の方からメールを残すことにしていた。

そして、どんなに遅くなっても彼からの返信が届いた。

細やかな人なのだと思うのがこんなときで、彼のややぶっきら棒な口調からは

計り知れない部分でもあった。


宝飾部門の正式な発足にともない、私には室長という肩書きが付き、

蒔絵さんは専属デザイナーとして我が社と正式に契約した。

それまで小さな工房に勤めながら勉強をしていた蒔絵さんは、急に環境が

変わったこともありかなりの緊張を強いられただろうに、元来の辛抱強さと

穏やかな人柄で、私が集めたスタッフとも上手く仕事をこなしてくれていた。


実績のない私たちのブランドを知ってもらうために、服地部門の取引先を

中心にこまめに顔を繋ぎ、相手の意見も取り入れていく。

服地素材とジュエリーの相性を探すのは大変ではあるものの、新しい発見の

多い作業でもあった。

金属の持つ特性と服地の風合いを生かしたコラボレーションを目指し、

女性をより美しく引き立たせる仕事に、私も蒔絵さんものめり込んでいった。


仕事に追われる毎日も悪くはないけれど、ゆっくりと呼吸ができる時間も

欲しくなるもの。

それは、部下や同僚との会食などでは得られない。

本当に心を許した人と過ごしてこそ……

そう感じるようになったのは、会えなくても宗一郎さんとの深夜の会話が

その日の気分を替え、気持ちを支えてくれていると気がついたからだった。


副社長付きの秘書である平岡さんは、宗一郎さんより長い勤務時間だと

聞いていた。

それは蒔絵さんにも言えることで、私より先に帰ることはなく、いつも残って

仕事をしている。


私が宗一郎さんと会う時間がないように、蒔絵さんも恋人である平岡さんと

過ごす時間を持てずにいたはずだ。

けれど、彼女はそんなことはおくびにも出さず、ときどき見せる寂しそうな

顔から私が推測しているに過ぎないのだが、思いが同じであるからわかると

言うもの。 

彼女の抱える寂しさを何とかしてやりたいと思うけれど、今の私には

手立てがなかった。

私の紹介で入ったとは言え、彼女は決して私と親密なことをひけらかしたり

しない。

むしろ控えめで、仕事で話すときを除けば私語などほとんどなく、室長と

デザイナーの関係を崩すことはなかった。




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