ボレロ - 第一楽章 -
平岡さんと蒔絵さんの嬉しそうな顔を見届けて、
「どこに連れて行ってくださるの?」 と宗一郎さんに疑問を投げかけたが、
彼は笑うばかりで答えてはくれない。
私の手を取りタクシーに押し込むように乗せると、聞きなれない住所を
運転手に告げた。
「そろそろ教えてください。それとも着くまで秘密なの?」
「うん……ゆっくりできるところがいいと思ってね。味は保証するよ」
「ゆっくりできるところ?」
そうこうするうちにタクシーが止まったのは、高層マンションの前だった。
戸惑い気味の私の手を引いてタクシーから降りると、マンションの
エントランスへと歩き出した。
隠れ家のようなレストランが、このマンションの中にあるのだろうか。
それとも誰かのお宅に伺うのか……
彼の自宅なのだろうかとも思ったが、宗一郎さんの帰宅を待っている人の
存在は考えたくなかった。
エレベーターでは迷わずボタンを押し、密室の中で抱きしめてくれるのでは
ないかとの私の淡い期待も消えるほど、彼は澄ました顔をしていた。
「ここは24時間監視カメラが作動している。
密会なんかしたらすぐにバレるそうだ」
「密会って。ふふっ……」
涼しげな顔の宗一郎さんの言いようがおかしくて、つい噴出してしまった。
けれど、絡めた指先は久しぶりの再会を確かめるように、何度も握り
なおされていた。
引かれる手にしたがって目的の部屋にたどりついたが、ここがどんな場所で
あるのかわからない私は、かなりの緊張を強いられていた。
誰が部屋で待っているのだろう。
若い女性が現れても動揺しないように覚悟を決めた。
ところが……
案内されマンションの一室の玄関に入ると、落ち着いた年配の女性が私たちを
出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。仙台はいかがでしたか。
まだ寒さが残っておりましたでしょう」
「向こうは肌寒くて、ひろさんに言われてコートを持参して良かった……
今日は急な頼みごとをしました」
「いいえ、そのようなことはございません。
お嬢さま、コートをお預かりいたします」
なんと挨拶をしようかと迷う私の手からスプリングコートを受け取ると、
年配の女性は 「奥へどうぞ」 と私へ声をかけて先に歩き出した。
その人は、宗一郎さんの自宅マンションの部屋の管理のほか、食事の世話
なども任されている女性で三谷弘乃さんといい、私にも縁のある人だと
聞かされておおいに驚いた。
短い時間に用意されたであろう料理にもかかわらず、季節の素材を使った
和食を中心にした料理は、薄味ながら充分に味が馴染み、夜遅い食事には
最適だった。
「紫子の紹介なんだ。週に2・3度来てもらっている。
夜食と朝食の準備もしてもらえるから助かるよ」
「まぁ、紫子さんの……そうでしたか」
「彼女の従兄弟の家を管理していたが、
彼が去年から日本を留守にしていてね。
今はここに来てもらうほうが多いかもしれない……
ひろさん、彼から連絡はありますか」
「いえ……ですが潤一郎さんから伺っております」
「一緒に仕事をしているようですね。元気に飛び回っているらしい。
彼らしいな」
二人の会話は、私にわかる部分とそうでない部分があったが、宗一郎さんと
三谷さんの信頼関係は充分に感じられた。
丁寧に語りかけながら 「三谷さん」 ではなく 「ひろさん」 と
親しみを込めて呼ぶ。
紫子の従兄弟が呼ぶように、そのまま名前で呼ばせてもらっているのだと、
照れながら説明する顔は私が初めて見る表情で、三谷さんに話しかける
優しい言葉遣いは、宗一郎さんの本質に触れたようで彼の内面を垣間見た
気がした。