ボレロ - 第一楽章 -
『明日から蒔絵さんと出張だったね』
『えぇ、インドネシアの職人さんたちに会ってくるわ。新しい企画なの。
上手くいくといいけれど』
『精力的だね。勢いがあるときは何をやっても上手くいくものだ』
『平岡さん寂しそうでしょう?
蒔絵さん、ここのところデザイン室に篭ってたの。
それに急に出張に同行してもらうことになって』
『あぁ、アイツはわかりやすいからね。
君たちが帰ってきたら一緒に食事でもしよう。
”筧” を予約しておくよ』
『大女将さん、お元気かしら。久しぶりね、楽しみにしているわ』
シンデレラタイムの電話は今も続いている。
今日あったこと、明日の予定、そして取り留めのない話。
手順を踏むように毎日同じ会話がくり返されていた。
霧の朝の別れから二週間がたっていた。
互いに忙しいのはいつものこと、会えない時間が増えていく。
「会いたい……」と、ひとこと私が伝えれば、彼は会いに来てくれるはず。
けれど、これ以上彼に踏み込んではいけないと心がブレーキをかけ、
引き返せなくなる前に距離をおくべきだと、もう一人の私が警告するのだった。
紫子さんから大叔母さまの誕生日の贈り物の相談を受けたのは、私たちが
インドネシアから帰国した二日後のこと、
食事をしながらお話を聞きましょうとランチの約束をしていた。
彼女とは同窓でもあり共通の友人も多く、会えば話がつきることはない。
紫子さんは、幼い頃からの婚約者と大学卒業後間もなく結婚した。
決められた相手との結婚で幸せは得られないなどと言う、口さがない友人も
いた。
けれど、紫子さんに限ってそんなことはなく、仕事柄出張の多いご主人は、
彼女との時間を大事にしてくれるそうで、会えば必ず
「潤一郎さんがこう言うのよ」 と話がでるほどだ。
待ち合わせのフレンチレストランに早めに着いた私は、そんな二人の
仲睦まじい姿を目にすることになった。
潤一郎さんが紫子さんを車で送ってきたのだ。
助手席のドアを開け、彼女の手をとり車外へと誘導する。
別れ際に何事かを告げ、握った手をもう一度握りなおし、手を振って二人は
別れた。
車が遠ざかるのをいつまでも見送る紫子さんの背中は、幸せな結婚をしている
のだと語っていた。
潤一郎さんに婚約者がいたように、彼の双子の兄である宗一郎さんにも
そのような女性がいたのだと聞いたことがある。
何らかの理由で婚約を解消したと聞いた記憶があるけれど、いったい何が
原因だったのか。
自分の過去は消してしまいたいと思っているのに、彼の過去は知りたいとの
勝手な思いが膨らみ、私は好奇心をとめることができずにいた。
「せっかくのお休みなのに、お呼びだてしてすみません」
「うぅん、ゆかちゃんにもお会いしたかったもの。
久しぶりね、潤一郎さんもお元気そうね」
「えぇ、一月ぶりに帰国したんですよ。今回は少しゆっくりできるみたい。
でも、それもあてになりませんけど」
外務省に勤務している彼は急な呼び出しなどで、そのまま海外へ赴くことも
少なくないのだという。