南の海を愛する姉妹の四重奏
 馬車がイスト(中央)へ一歩近づくごとに、外の景色はどんどん明るいものに変わっていく。

 同じ月だというのに、ロアアール(北西)とは何もかも違う景色。

 暦では、三月に入ったばかり。

 故郷では、まだまだ雪が降る時期だというのに、道端には花が咲き始めている。

 妹のようにおおはしゃぎすることはないものの、心が浮揚していくのが分かる。

 春が遅い分、この国の誰よりも春を喜ぶロアアールの地。

 それは、領民だけでなく、公爵家も同じなのだ。

 そんな春の道程を楽しみながら──ついに姉妹は、イストの都へ入ったのだった。


 ※


 王の都は、すさまじかった。

 大きな道には石畳が敷き詰められ、馬車の混雑も物凄い。

 それを、熟練の御者たちがまるで魔法のように操って、ぶつけないようにかわしていくのだ。

 ロアアールから連れて来た御者たちは、父の謁見会にも付き添っていた者なので、もちろん都を走ったことはあるだろう。

 しかし、これまでとは明らかに違う、少しぎこちない馬車の動きに、レイシェスはハラハラしてしまった。

「姉さん見て、すごく大きな教会!」

 ウィニーは気づいていないのか、すっかり窓から観光を始めている。

 窓の外にも興味は山ほどあるが、今はとりあえず王宮へと無事たどり着きたかった。

 そんな彼女の願いは聞き届けられたようで、馬車は大きな石造りの建物の前で止まったのだ。

「お嬢様…ここから王宮に入るための馬車の先導がつきます」

 そう告げられ、どれだけほっとしたことか。

 レイシェスは、この馬車のことしか考えていなかったが、馬車の後ろには荷馬車の後続があるのだ。

 公爵家が、謁見会に参加するのに、手ぶらというわけにはいかない。

 献上品に、着替えなど滞在に必要な物などを詰め込むと、1台目の荷馬車はいっぱいだ。

 さらに、召使も連れて来ているため、もう1台。

 これだけのものを、無防備に運ぶ訳にはいかない。

 護衛が、軍より騎馬で10騎。

 これでも、おそらく公爵家としては質素な方だろう。

 派手に飾り立てる慣習は、ロアアールにはなかった。

 外で、男の話し声がする。

 片方は、護衛隊の隊長のものだが、もう片方はこの施設の人間だろうか。

「申し訳ありません…しばしお待ちいただけませんでしょうか」

「何と、公爵家の馬車を待たせるというのか」

 どうやら、トラブルのようだ。

 謁見会の年である。

 5公爵が都へ詣でることを、都の人間で知らない者はいないだろう。

 いまの王都では、他のどんな立場の人間より、最優先されるはずなのだが。

「ほんの少し前、ニール(東)の公爵様がおいでになられまして…たった今しがた、王宮に向けて出発されたばかりなのです」

 何という間の悪いことか。

 たった5組しか来ない公爵が、同じ日のほぼ同じ時間でぶつかってしまったというのだ。

 ニールは、彼女らの父よりも年上の老公爵だったはず。

 会った事はないが、情報としてレイシェスはそれを覚えていた。

「他に先導はいないのか?」

「王家か公爵家にしか使わない、特別な先導ですので…」

 外の会話に、彼女はため息をつきながら、自分の不運を嘆こうかと思った。

 幸先が悪いこと、と。

「姉さん…助けてあげない? きっとあの人、いま泣きそうだよ」

 だが、ウィニーがそっと囁いてくる。

 不幸なタイミングだったのは、ここの人間にとっても同じだろう。

 更に、彼には何の手落ちもないというのに、公爵家を待たせた罰が降りかかるかもしれないのだ。

「隊長……その辺で」

 妹に言われてから行動する自分を、少し恥ずかしく思いながらも、レイシェスは馬車の外に軽い制止をかけた。

「し、しかし」

 どうにもならないことは、彼も分かっているが、主が軽んじられるような事が許せないのだろう。

「待ちましょう…まだ日は高いのですもの」

『まだ日は高い』

 ロアアールの故事でもあるそれは、『最後には勝つ』という意味。

 正確には、『まだ日は高い、雪は降っておらぬし、足も動く』という、ご先祖様の言葉だ。

 戦いの場で語られたものだけに、軍人たちにとってそれは特別な言葉。

 馬車を待たされた程度で、敗者というわけではないのだと、それをレイシェスは柔らかく伝えようとしたのだ。

「……ハッ!」

 一瞬にして、外の空気がピリッとしたのが分かる。

 やんわり伝えようとしたつもりが、隊長の軍人魂をくすぐってしまったのだろうか。

「姉さん、やる~」

 ウィニーに、小さくひやかされる。

「馬鹿なことを言ってないで…」

 そんな事件のすぐ後、もうひとつ事件がレイシェスの唇を止めた。

 後方が騒がしくなったのだ。

「待たれよ、待たれよ!」

 複数の馬の、いななく声。

 護衛の隊が、ざっと後ろへと駆けていくではないか。

「こちらは、公爵家の馬車である、さがられよ!」

「何と! こちらも公爵家の馬車である!」

 恐ろしい事態が発生したのは、考えるまでもなく明らかだった。

 ニール(東)の公爵だけで飽き足らず、またも別の公爵と時間がぶつかったというのだ。

「何て…ことだ」

 外で、男が呆然とつぶやく声が聞こえた。

 滅多に起きないことが、起きてしまったようである。

 もはや、この男の職は守られないかもしれない。

 さすがのレイシェスも、他の公爵の怒りまでは止めようがないからだ。

 しかし。

「その紋は…ロアアールの公爵家であらせられるか?」

 驚きの声と共に、事態は違う方向へと流れ始める。

「なんと、フラの方ではありませんか」

 護衛同士が、半ば呆然とお互いの地域を呼び合うではないか。

 フラ!?

 反射的に、レイシェスはウィニーと顔を見合わせていた。

 次に、ウィニーは慌てて首を伸ばして後ろを見ようとするが、馬車の後ろに窓はなく何も見えるはずなどない。

 レイシェスは、おとなしく座ったまま、胸だけを高鳴らせた。

 祖母の国でもあり、手紙を送り合う相手でもあるフラの公爵が、すぐ後方にいるというのだ。

「ど、どうしよう…会えないかな?」

 どうしても耐え切れなそうなウィニーを、視線で制する。

「だめよ…父上の名代なのだから。公爵家の人間が、簡単に外に出る訳にはいかないのよ」

 そう遠くなく、王宮で対面することが出来るのだ。

 その時に、これまで磨き上げてきた礼儀作法で、恥ずかしくなく挨拶をすればいい。

 ウィニーの言うようなことをした日には、無作法で無教養な跡取りとして、悪い噂を故郷に届けてしまう。

 そうしたら母の怒りと、更なる教育が始まるに違いない。

 母のことを思い出すと、レイシェスはどれほどでも自分を律することが出来た。

 なのに。

「私の可愛い『はとこ殿』は、こちらかな?」

 馬車の外から、信じられない言葉が投げかけられた。

 低すぎない、張りのある強い声。

 扉につけられた窓の外に、人影はない。

 わざと、覗かないようにしてくれているのだろう。

 まさか。

 いや、そんなまさか。

 レイシェスは、余りのことに席で硬直してしまった。

「タータイト公爵のおじ様?」

 だから、ウィニーの口にふたは出来なかった。

 外にいるのが誰か分かって、嬉しくてたまらないのだ。

「おっと、驚いたな。その呼び方は、赤毛同盟の姫ではないか?」

 少し芝居がかった、おどけた口調。

 ウィニーが、軽やかに笑った。

 手紙で交わした、お互いにしか分からない話なのだろうか。

「さて、可愛らしい二人のはとこ殿……もしお許しいただけるなら、ご尊顔を拝し奉りたいのだが」

 レイシェスは、余りに常識はずれで、そして強引な公爵にただただ驚くばかりだった。

 こんなところでは、落ち着いて挨拶も出来はしない。

 ど、どうしましょう。

 どきどきと高鳴る胸では、とても冷静に考えられそうにない。

 そうしたら、ウィニーが。

 妹が、自信満々に笑いかけてくるではないか。

 まるで、『大丈夫』と言わんばかりに。

 この根拠のない自信は、一体どこから出てくるのか。

 けれど、その不敵なまでの妹の態度は、ほんの少しレイシェスを落ちつかせた。

 相手は公爵で、ここまでへりくだられ、馬車の前まで来てもらったものを、無碍にするわけにもいかないだろうと。

「光栄ですわ…」

 緊張で震えそうになる手を、膝の上でぎゅっと握って、レイシェスはようやくそう答えた。

 馬車の外で、わずかに空気が緩んだかと思うと。

「では…失礼を」

 言葉の後、一呼吸おいて馬車の扉のとってが、ゆっくりと弧を描く。

 ロアアールよりも温かい、春の空気が扉からふわりと入ってきた。

 それと同時に、馬車の横にいたであろう男が、二人の前に現れる。

 輝く赤毛は、ウィニーのものとそっくりだ。

 前髪を後ろに流し、それでおさまりをつけているようだが、とてもおとなしい髪質には見えなかった。

 太陽の下がよく似合う、褐色の肌と逞しい胸板。

 それらを、濃い緑の礼服におさめているのが、窮屈に見えるほどだ。

 彫りの深い目元を、長いまつげに縁取られた黒い瞳が輝き、その上を太めの眉がきりりと這っている。

 そして、物を自由に語るに違いないと思われる、大きめの唇を全部ひっくるめて一言で言うのならば──精悍、だろうか。

「馬車の中から失礼致します。わたくし、ラットオージェン公爵代理、レイシェス・ロアアール・ラットオージェンと申します」

 ロアアールの男の、誰とも似ていないその容姿に、レイシェスは驚きながらも己の最初の使命を果たそうとした。

 その、教科書のような挨拶を、フラの公爵は目を細めて見ている。

「噂はもっと誇張して流すべきだな…美しきはとこ殿…いや、レイシェス殿。私は、カルダ・フラ・タータイト。私は雪を見たことはないが、きっと雪の精霊は、レイシェス殿のような姿をしているに違いない」

 馬車のステップに片足をかけ、身体半分だけを中に入れるようにすると、彼がとても大きな男であることが伝わってくる。

 片手をへりにかけ自分を支えると、公爵はもう片方の手をレイシェスに伸ばす。

 しっかりと握りしめていた膝の上の手の片方を、優しく取られたかと思うと、深く上半身を屈めるようにして挨拶の唇が寄せられる。

 男性から女性への、普通の挨拶だと分かっていても、こんな場での変則的な行為に、平然としているのは難しかった。

「タータイト公爵のおじ様」

 一方、ウィニーは目を輝かせて自分の番を待っていた。

「やあ、可愛い私の赤毛姫…会いたかったよ。我らの行儀の悪い赤毛を、よくぞ受け継いでくれた。それに、素晴らしい色のドレスだ…よく似合っているよ」

 祖母の古いドレスをほめられて、妹はとても喜んでいた。

 ウィニーへの挨拶は、おでこに。

 正式な挨拶というよりは、まるで親戚の子どもにするようなものに見えた。

「可愛い二人のはとこ殿。王都に入ってすぐ、二人に出会えるなんて…何という神の思し召しだろうね。こんな幸運は、なかなかないものだよ」

 ステップに片足をかけたまま、フラの公爵は本当に嬉しそうに微笑む。

 レイシェスが、何故か眩しさで目を細めてしまいそうになるほど。

 こうして、ロアアールの姉妹とフラの公爵は、初めて顔を会わせることとなった。


 そうしている内に、ニールの公爵を送った先導の馬の隊列が戻ってきたという。

 公爵家の馬車が2台も待っているという前代未聞のこのトラブルは、次のように解決された。

 2台の公爵の馬車は、ひとつの先導で共に王宮に入ることにしたのである。

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