南の海を愛する姉妹の四重奏
 絶望的に、思えた。

 レイシェスは、その扉の前で立ちつくす。

 主賓専用の扉は、王や王太子専用の扉という意味と同じだ。

 その先にあるのは彼らの部屋であり、この扉以外から向かおうとしても、許可なく立ち入ることは許されないエリアとなる。

 ついさっきまで、踊りの輪の中にいると思っていた妹は、風のように素早く、そして計算された位置とタイミングにより、王太子に連れ去られてしまったのだ。

 異変に気付き、レイシェスがダンスを投げ出して追った時には、もう遅かった。

 『王太子の御命令です』という、扉に衛兵の言葉が無情に響き、扉はびくともしない。

 王太子は彼女の妹を、何事もなく帰すことはない──そういうことだった。

 王族のことなど、まったく知らない妹である。

 いま、自分がどういう状況に置かれているのか、まるで理解していないまま連れて行かれているに違いない。

 どれほど不安で、恐ろしい思いをしているだろうか。

 王太子という人間を、表面上とは言え知っているからこそ、レイシェスは己の背筋を冷たくした。

 どうにかして、この扉を突破する方法はないのか。

 だが、心の中で誰かが言う。

『そんなことは、無理だ』と。

 公爵代理である彼女でさえ、この扉を開けることは出来ない。

 このままここで妹が戻されるのを、ただ待たねばならないというのか。

「交代しよう」

 そんな彼女の後ろから、フラの公爵が駆けつけてくれた。

 スタファが、呼んできてくれたのだろう。

「兄上に任せよう……私達がいますべきことは、見ていることだ」

 ギリギリと、スタファは声の奥にある怒りを、決して隠してはいなかった。

 だが、レイシェスの肩を後ろから支えるように抱きながら、それでも彼は踏みとどまるのだ。

 見ていること?

 彼女は、それを疑問に思った。

 見ていて、何が変わるというのか。

 いままで、レイシェスはずっとウィニーのことを見ていた。

 ロアアールでは、見ていることしか出来なかったからだ。

 それで、何が変わったというのか。

 無力な自分を、思い知るだけである。

 実際、公爵の問いかけに、衛兵は「王太子命令」という同じ言葉で拒んでいるではないか。

「……」

 一度、フラの公爵は言葉を止めた。

 彼は、上着の内側に手を入れ、何かを取り出す仕草をする。

「では、王太子に急ぎお渡しいただきたいものがある……タータイト公爵よりと伝えていただけば分かる。少しだけ、隙間を開けるくらいならばよいだろう」

 衛兵は、彼が手に持っているものを見て、ぎょっとした。

 それは、大きな赤い石のはまっている指輪だった。

 一衛兵が、決して触れることも出来ない素晴らしいものであろうことは、レイシェスの目から見ても分かる。

 余りの高価な品に、彼らも動揺したのだろう。

 公爵のすぐ側の衛兵は、直接指輪を預かるではなく、向こう側にいる仲間に、責任をなすりつけてしまおうと思ったに違いない。

 その扉を、ほんのわずかだけ開けたのだ。

 瞬間。

 フラの公爵は指輪を放り出すや、その隙間に手を突っ込んだのである。

「何をなさいます!」

 慌てたのは、衛兵だ。

 いや、慌てすぎたと言っていい。

 彼らは、思わず扉を強く閉めてしまった。

 レイシェスは、強く身を竦めていた。

 何が起きたか、容易に想像出来てしまったからである。

 扉は──無残にも、公爵の指を強く挟んだのだ。

 だが。

 レイシェスが見た公爵は、扉から決して手を引く事なく、そこに立っている。

 青ざめたのは、衛兵だった。

 たとえ王太子の命令であったとしても、彼らは貴族最上位の、公爵の身に怪我をさせたのである。

 いくら彼が、その場にしっかりと立っていて、手も引かず叫び声ひとつあげていなかろうと、あの勢いで怪我をしていないはずがないのだ。

「私は指輪を落としたので、慌てて拾おうとしただけだが……何故、このような仕打ちをされねばならないのかね」

 公爵の背から、赤い炎が上がっているように見えた。

 普段の優しい彼からは、とても想像のつかない力の声。

 どれほどの言いがかりであろうとも、拒否出来ない強さが、レイシェスの目の前にある。

「も、も、もうしわけござ……」

 その気に押され、衛兵たちは縮みあがりながら、公爵の手を救うべく扉を開けた。

 レイシェスの前で。

 開かないはずの。

 扉が。

 開いたのだ。

 その向こうから。

「公爵のおじさま!!!」

 駆けてくる赤毛の少女がいた。

 髪を乱し、ドレスを抱え上げ、靴もはいていないウィニーが、顔を真っ赤にしてこちらに向かってくる。

 妹もまた。

 諦めていなかった。

 あの王太子から逃げるのは、どれほど大変だっただろう。

 唖然とする衛兵を横目に、公爵は怪我を負ったはずの手で、扉をもう少し余計に開く。

 妹が通るのに、問題のないほどに。

「おかえり、ウィニー……最高だよ、君は」

 両手を伸ばして、公爵は彼女を抱き止めた。

 レイシェスは、『見ていた』。

 その意味が、ようやくいま分かったのだ。

 スタファは、ただ『傍観しろ』と言ったのではない。

 公爵である、彼の兄のやり方を見ろと言ったのだ。

 知恵を使い、己の身体を厭わず、威厳ある言葉で圧倒する。

 これがまさに──公爵というもの。

 ここまでする覚悟があれば、動かないはずの岩さえも動かすことが出来るのだ。

 衝撃、だった。

 動けないでいるレイシェスの後ろで、スタファは動いていた。

 足元に落ちた公爵の指輪を拾って、ウィニーを抱きしめている兄に差し出したのだ。

 公爵は、軽く顎で扉の向こうを指す。

 それを受けたスタファは。

 指輪を、扉の向こうへと放り投げた。

 まるで、それがウィニーの身代わりであるかのように。

「出ようか」

 ウィニーを支えながら、公爵は一言告げた。

 誰ひとり、反論を唱えるものなどいるはずもない。

 精神的な衝撃の大きさに、震えそうになるレイシェスを──スタファは、支えるように腕を取ってくれたのだった。

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