南の海を愛する姉妹の四重奏
逃げかけた己の身を、ウィニーは自身で強く引き止めた。
いま、彼女と共にいるのは、侍女のネイラ一人。
助けてくれる者は、いない。
いや、いる。
いるのだ。
だが、彼らはみなそれぞれの仕事で、ここにいられなかったり、多忙を極めていたりしていた。
そんな大事な人たちの、助けになりたいから。
だからこそ、ウィニーはここを自分一人で、きちんと乗り越えなければならないと思ったのだ。
脇へ一歩よけ、王太子が歩く道を開ける。
彼とこのまま、うまくすれ違えればいい。
だが、そんなことは、自分の希望による淡い空想であることくらい、もうちゃんと分かっていた。
だから、ウィニーはちゃんと心構えはしていたのだ。
何が起きても、驚いてしまわないように。
王太子の通過に合わせ、深く辞儀を表していた彼女の目の前で、やはり彼は足を止める。
視線を下げているウィニーには、目の前の男がどんな表情をしているのかは分からなかった。
ただ、おそらく彼女の記憶にある、不機嫌な表情であろうとは思っていた。
そんな彼女の目に、王太子の表情は映らなくとも、身体の反対側からずいと差し出された手は見ることが出来る。
手を取るという意味で差し出されたのではないことは、よく分かっていた。
何故ならば、ウィニーの視界にある右手には、いまだはっきりと歯型の形に内出血した痕が、ありありと残っていたからだ。
最後に会ったフラの公爵は、右手に包帯をしていたが、この男は隠すことよりも晒す方を選択したのか。
まるで、責めるように突きつけられるその歯型の手。
ここで、男性慣れした女性であれば──たとえばラーレであったとするならば『おいしゅうございましたわ』などという、ジョークでうまくかわせるのかもしれない。
しかし、ここにいるのはウィニーで。
これまでの少ない経験では、そんな言葉は思いつきもしない。
それよりも。
ウィニーは──自分の右手を差し出した。
短いながらに付き合ってきた王太子には、こちらの方がしっくり来るような気がしたのだ。
そして、こう言った。
「どうぞ、お噛み下さい」
目には目を、踏んだ足には足を。
では、噛んだ手には、同じだけの対価を。
フラの公爵も、彼女のために痛い思いをしたのだ。
こんなもの、ただ痛いだけではないか。
命に別条がある訳でもなし、ロアアールの現在の危険に比べれば、ささやかな犠牲だ。
手が。
噛み痕のある手が、ウィニーの手首を掴む。
あっと思った時には、上に引き上げられていた。
見上げる形になった彼女は、そこでようやく王太子を視界に映すこととなったのだ。
黒い黒い髪の向こうに、灰色がかった緑の瞳が見える。
その中に、赤い髪が映っていた。
しかし、彼の表情は、ウィニーが予想した通りの不機嫌顔。
この男には、笑みというものは浮かばないのだろうか。
見ていると、掴まれた手はそのまま引き上げられていく。
王太子の口元へと。
踏ん張れ、私。
息がかかるほど、近くに自分の手がある。
彼の唇が開くのを、ウィニーは見ていた。
穏やかな開き方ではなく、獰猛な肉食獣のように歯がむかれていく動きを。
こんなこと。
なんでもな──がりっ。
やっぱ、痛いーーーっ!!
※
かくしてウィニーは、王太子、フラの公爵に続き、三人目の右手を怪我した者となった。
彼への対応を、ウィニーは間違わなかったようだ。
王太子は──最低でも同じだけの犠牲を相手にも強いるように見える。
人から与えられる害には、必ず同等以上が返されるのだ。
だからと言って、自分が人に与えた害についてはそのまま。
くっきりと残る王太子の歯型と、見るだけで痛い赤と青が広がり始める手の甲。
痛みを我慢しながら、ウィニーは声ひとつ出すものかと奥歯を食いしばった。
口は離したものの、王太子はその手を離さなかった。
それどころか。
さっき噛んだばかりの手の部分を、わざわざぎゅうっと強く握り直したのだ。
「……!!」
頭の真ん中に金属の棒を突き立てられるような、鈍く冷たい痛みが駆け抜けた。
それでも。
それでも、ウィニーは声は出さなかった。
だが、目だけは涙目になってしまう。
どうしても、それだけは止められなかったのだ。
「屈した方が、楽ではないか?」
冷やかな言葉だ。
だが、おかしな言葉にも思えた。
何の力も持たない、こんな小娘一人屈させたところで、一体何になるというのか。
ウィニーの姉なら、分かる。
彼女は公爵になる人間なのだから、屈服させれば王となる者としてはやりやすいだろう。
痛みで頭の中が混乱しそうになりながら、そんな思考をウィニーは形にしてみた。
「何で私を……?」
息があがっているのは、痛みのせい。
だから、最後まで思っていることは形にならなかった。
おそらく、通じたはずだ。
彼は、手を離した。
代わりに、またしてもウィニーの髪を掴んでいる。
「赤い髪の女は……目ざわりだ」
王太子は。
赤毛がお嫌いらしい。
いま、彼女と共にいるのは、侍女のネイラ一人。
助けてくれる者は、いない。
いや、いる。
いるのだ。
だが、彼らはみなそれぞれの仕事で、ここにいられなかったり、多忙を極めていたりしていた。
そんな大事な人たちの、助けになりたいから。
だからこそ、ウィニーはここを自分一人で、きちんと乗り越えなければならないと思ったのだ。
脇へ一歩よけ、王太子が歩く道を開ける。
彼とこのまま、うまくすれ違えればいい。
だが、そんなことは、自分の希望による淡い空想であることくらい、もうちゃんと分かっていた。
だから、ウィニーはちゃんと心構えはしていたのだ。
何が起きても、驚いてしまわないように。
王太子の通過に合わせ、深く辞儀を表していた彼女の目の前で、やはり彼は足を止める。
視線を下げているウィニーには、目の前の男がどんな表情をしているのかは分からなかった。
ただ、おそらく彼女の記憶にある、不機嫌な表情であろうとは思っていた。
そんな彼女の目に、王太子の表情は映らなくとも、身体の反対側からずいと差し出された手は見ることが出来る。
手を取るという意味で差し出されたのではないことは、よく分かっていた。
何故ならば、ウィニーの視界にある右手には、いまだはっきりと歯型の形に内出血した痕が、ありありと残っていたからだ。
最後に会ったフラの公爵は、右手に包帯をしていたが、この男は隠すことよりも晒す方を選択したのか。
まるで、責めるように突きつけられるその歯型の手。
ここで、男性慣れした女性であれば──たとえばラーレであったとするならば『おいしゅうございましたわ』などという、ジョークでうまくかわせるのかもしれない。
しかし、ここにいるのはウィニーで。
これまでの少ない経験では、そんな言葉は思いつきもしない。
それよりも。
ウィニーは──自分の右手を差し出した。
短いながらに付き合ってきた王太子には、こちらの方がしっくり来るような気がしたのだ。
そして、こう言った。
「どうぞ、お噛み下さい」
目には目を、踏んだ足には足を。
では、噛んだ手には、同じだけの対価を。
フラの公爵も、彼女のために痛い思いをしたのだ。
こんなもの、ただ痛いだけではないか。
命に別条がある訳でもなし、ロアアールの現在の危険に比べれば、ささやかな犠牲だ。
手が。
噛み痕のある手が、ウィニーの手首を掴む。
あっと思った時には、上に引き上げられていた。
見上げる形になった彼女は、そこでようやく王太子を視界に映すこととなったのだ。
黒い黒い髪の向こうに、灰色がかった緑の瞳が見える。
その中に、赤い髪が映っていた。
しかし、彼の表情は、ウィニーが予想した通りの不機嫌顔。
この男には、笑みというものは浮かばないのだろうか。
見ていると、掴まれた手はそのまま引き上げられていく。
王太子の口元へと。
踏ん張れ、私。
息がかかるほど、近くに自分の手がある。
彼の唇が開くのを、ウィニーは見ていた。
穏やかな開き方ではなく、獰猛な肉食獣のように歯がむかれていく動きを。
こんなこと。
なんでもな──がりっ。
やっぱ、痛いーーーっ!!
※
かくしてウィニーは、王太子、フラの公爵に続き、三人目の右手を怪我した者となった。
彼への対応を、ウィニーは間違わなかったようだ。
王太子は──最低でも同じだけの犠牲を相手にも強いるように見える。
人から与えられる害には、必ず同等以上が返されるのだ。
だからと言って、自分が人に与えた害についてはそのまま。
くっきりと残る王太子の歯型と、見るだけで痛い赤と青が広がり始める手の甲。
痛みを我慢しながら、ウィニーは声ひとつ出すものかと奥歯を食いしばった。
口は離したものの、王太子はその手を離さなかった。
それどころか。
さっき噛んだばかりの手の部分を、わざわざぎゅうっと強く握り直したのだ。
「……!!」
頭の真ん中に金属の棒を突き立てられるような、鈍く冷たい痛みが駆け抜けた。
それでも。
それでも、ウィニーは声は出さなかった。
だが、目だけは涙目になってしまう。
どうしても、それだけは止められなかったのだ。
「屈した方が、楽ではないか?」
冷やかな言葉だ。
だが、おかしな言葉にも思えた。
何の力も持たない、こんな小娘一人屈させたところで、一体何になるというのか。
ウィニーの姉なら、分かる。
彼女は公爵になる人間なのだから、屈服させれば王となる者としてはやりやすいだろう。
痛みで頭の中が混乱しそうになりながら、そんな思考をウィニーは形にしてみた。
「何で私を……?」
息があがっているのは、痛みのせい。
だから、最後まで思っていることは形にならなかった。
おそらく、通じたはずだ。
彼は、手を離した。
代わりに、またしてもウィニーの髪を掴んでいる。
「赤い髪の女は……目ざわりだ」
王太子は。
赤毛がお嫌いらしい。